古代ローマの詩人ウェルギリウスは、『農耕詩』の中で表題の言葉を語っています(2.109)。

すなわち「土地にはいろいろな性質があるし、植物の種類も多様である。すべての土地からすべて(の種類の植物)が生まれるのではない」と。詩人はこの行に続けて、「柳は川端に、ハンの木はどろどろの沼地に、実を結ばないナナカマドは岩だらけの山に育ち、ミルテの茂みは海岸に、もっとも見事に繁茂する。葡萄は開けた丘を好み、イチイは冷たい北風を好む。」と例を挙げています。  

ところで、今見た表現には、奥深いバックグラウンドがあります。まず原文のラテン語を紹介しますと、

“Nec vero terrae ferre omnes omnia possunt.”

となっています。このうち否定を示すNecの語をとると、「すべての土地がすべてを生むことができる」と意味が変わり、伝統的な黄金時代の特徴を示す言葉に早変わりします。

この黄金時代については、ヘシオドスという古代ギリシアの詩人が『仕事と日』(岩波文庫に翻訳があります)の中で描写しています。ヘシオドスによれば、遠い過去には神と変わらぬ黄金の族がいて、心に憂いなく、争いを知らず、あらゆるよきものに恵まれて暮らしていたことがいわれています(『仕事と日』 109-120)。一方、現実は悲惨な鉄の種族の代であり、人は日夜労働と苦悩に苛まれていることも言われます。大地はかつては耕さなくても多くの実りをもたらしたが、今では実りをもたらさず、人間に過酷な労働を強いるとも言います。ヘシオドスによれば、人間の苦悩は、プロメテウスがゼウスを欺き、火を盗んだ事実に起因します。怒ったゼウスは火盗みの罰として、人間に様々な苦難をもたらしました(43-105)。ヘシオドスはこのような神話を語りながら、人間がゼウスの正義を信じ、労働に励まなければならない理(ことわり)を説くのです。

さて、ウェルギリウスが、『農耕詩』の手本としてヘシオドスの『仕事と日』を意識したことはよく知られていますが、表題の言葉は、原文の否定辞Necが明示するとおり、現実がもはや黄金時代とは呼べないことを表したものと解せます。事実、ウェルギリウスは別の箇所で、現実の農耕の困難は神ユピテルの意思を反映すると述べています。すなわち、昔は大地は豊かな実りをもたらしたが、ユピテルがあえて、農耕の道が困難であることを望んだ、というのです。ヘシオドスは人間の労働がゼウスの与えた罰である、との見解を示しています(プロメテウス、パンドラの神話参照)が、ウェルギリウスの場合、必ずしも「罰」とは述べていない点が注目されます。

ここで黄金時代のテーマとルクレティウスとの関連についてふれておきたいと思います。この詩人は、教訓詩『万物の本性について』を通じ、エピクロス哲学をローマ国民に紹介しました。エピクロスは宇宙法則を独自の原子論によって解釈しましたが、その狙いは心から苦悩を取り去ること、アタラクシアを得ることにありました。人間世界の出来事に神の介入を認めることは、人を恐怖と苦悩に導く誤った考えの際たるものといいます。人間は正しい自然法則の理解によって、迷信を否定しあらゆる苦悩から解放されるでしょう(1.62ff.; 1.146-158など)。この詩人も、ヘシオドスの黄金時代のテーマを示唆しながら、エピクロス哲学の正しさを効果的に訴えている点が注目されます(これも「本歌どり」です)。ヘシオドスはゼウスの罰として過酷な労働が人々を苦しめると解しましたが、ルクレティウスによれば、大地も原子の集積である以上、誕生、老化、死のサイクルを免れません。老いた大地がもはや多くを生み出さないのは当然です(2.1105-52)。実際、現実の農耕の困難については、次のように説明しています(2.1157-1174)。

さらに、大地は初めて人間のために、繁茂する穀物や豊かな葡萄樹を生み出し、甘い果実や、豊かな牧草を与えてくれた。これらの産物は今では、我々の労働を尽くしたところで、とうてい増加するものではなく、牛や農夫の力をいたずらに疲弊させ、鍬を磨滅させるばかりである。その結果畑から得られる収穫はほんの僅かであり、それほどまで畑は実りを出し渋り、我々の労働を増やそうとしている。今や老いた農夫は首を振り、労苦も徒労に帰するといっては嘆息を重ね、今の世を過去の時世と比べて、祖先の幸運をしばしば称える。枯れてしなびた葡萄を世話する者も、同様に悲しみにくれ、時の動きを罵っては天を呪う。そして昔の世は、めいめいの土地が今より遥かに狭隘であったのに、敬虔の念に篤く、僅かの土地でもきわめて安楽に暮らしていけたものだと愚痴をこぼすのである。万物が徐々に朽ちていくのだということを、また老衰のために疲労しきって、破滅に向かっているのだということを解しない。

これに対し、過去の人間にも現在の人間にも変わらぬ共通点が認められる、と言います。富や名声への欲望がそれです。過去においては動物の皮、現在では緋色の衣や黄金が人間の欲望に火をつけ、戦争へと導いていくのです(5.1423-24)。詩的技巧との関連でいえば、ルクレティウスは黄金の輝きを人間の欲望の象徴として描くとともに(2.24, 27, 28, 51)、何ものにも動じない心の平静、即ちアタラクシアに対しても黄金のイメージを付与しています(3.1-13)。

かくも大いなる暗黒の中から、かくも燦然と輝く光を初めて掲げ出し、生命の喜びを照らし出したお方よ。おお、ギリシア民族の誉よ、わたしはあなたの後に従おう。(中略)あなたは父であり、真理の発見者であり、父としての教えを我々に授けて下さった。高名な方よ、我々はさながら蜜蜂が花咲く野原で蜜を味わい尽くすように、あなたの書物から黄金の言葉(aurea dicta)を、永遠の生命に常に価する黄金の言葉を味わおうとする。

ここで示唆される内面の平和は、暗黒に輝く黄金のイメージを与えられながら、ヘシオドスの描く黄金の種族の生活を想わせます。即ち、ヘシオドスによれば、この時代の人間は、「心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、神々と異なることなく暮らしていた」(『仕事と日』112-113)といわれています。しかし、ヘシオドスは正義と労働に立脚した社会が、現実世界で豊かさを実現すると考えたのに対し( 225ff.)、ルクレティウスは、外界の悪条件がいかに人間を苦しめようとも、理性(ratio)を正しく用いるならば、内面においてはヘシオドスの黄金の種族のような生活を楽しむことができると示唆している点で異なります(ここがルクレティウスのoriginality)。いい換えるなら、人間は失われた黄金時代の要素を部分的に、即ち内面において回復できると主張していると考えられるわけです。

さて、表題の言葉にもどりますが、この表現は一方では、ウェルギリウス自身の過去の作品『牧歌』第四歌の表現を想起させる事実も確認しておきましょう。

omnis feret omnia tellus (39) すべての土地はすべてのものを生むだろう。

『農耕詩』の表現 Nec uero terrae ferre omnes omnia possunt. (「ところで、すべての土地がすべてのものを生むことはできない」)に見られる否定辞Necは、『牧歌』における黄金時代のビジョンを否定する言葉として、一見鉄の時代への言及を用意するかと思わせます。しかし、実際には程なく「イタリア賛歌」(2.136-176)において、黄金時代にも似たローマの繁栄が称えられるのです。この興味深い矛盾については、どのように理解すればよいのでしょうか。

ここで、再びルクレティウスの影響について考えてみます。今見た「すべての土地がすべてのものを生むことはできない」という『農耕詩』の表現は、一方においては「すべて(の樹木)がすべて(の実)を生むことができるだろう」(1.166 ferre omnes omnia possent)というルクレティウスの表現とも密接に関わっているのです。

ルクレティウスの表現は「何ものも無からは生じない」というエピクロス哲学の根本原理を反映したものであり(cf.1.155-156)、もしこの原理が正しくないとすれば、「あらゆる物があらゆる物から生まれ、種も不要となるであろう。人間は海から生じ、大地から魚や鳥が生まれ、家畜や動物は空から溢れ出す。木々は同じ果実を生むことがなくなり、すべて(の樹木)がすべて(の実)を生むようになる。(1.159-166)」といわれます。

ここではエピクロスの原子論、とりわけ再生の原理を語る前提として、自然界の多様性が論じられていることがうかがえます。即ち、ルクレティウスは「何ものも無からは生じない」(1.205)と述べ、「いかなるものも無に帰することは絶対にあり得ない」(1.237)と語った後、「であるから、物は一見死滅するかのように見えても、実は完全には死滅することがない。自然が一つの物を作るのには、他の物から作りなおすのであって、いかなる物でも、他の死によって補われることのない限り、生まれ出ることは許されない。」(1.262-264)と述べるのです。

他方ウェルギリウスも、多様性のテーマと関連づけて、自発的に育つ植物の種類を列挙した後、「これらの多様な成長の方法は自然が定めたものであり、またこの原理に基づいてすべての植物は青々と生い茂る」(2.20-21)と語っています。この表現自体、ルクレティウスの5.1361以下をふまえたものですが 、続く箇所では、人間が経験(2.22 usus)を通して発見した接ぎ木の方法を説明し、技術(2.52 artis)によって自然を思いのままに作りかえる可能性について述べています。

この描写は「万物は定められた種から生じ、各々の種を維持する」(1.189-190)と主張するルクレティウスの考えと真っ向から対立するかに見えます。しかし、この「見せかけ」は意図的なものであり、ウェルギリウスは、ルクレティウスのいう再生の原理そのものを否定しているのではなく、人間の技術が自然界により大きな多様性をもたらす可能性をむしろ強調しているわけです。

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