ラテン語は語順が自由

「ラテン語は語順が自由」とされます。具体例をみてみましょう。

1. Mors sine musis vita.はどう訳すか?

Mors sine mūsīs vīta.
(mors,-tis f. 死 sine <奪格>なしに mūsa,-ae f. 音楽 vīta,-ae f. 人生)

この文をどう訳せばよいかですが、ポイントはsine mūsīsの訳し方です。「音楽のない」というフレーズをmorsにかけるかvītaにかけるか?文法的にはどちらにかけてもかまいません(これが語順が自由だといわれるゆえん)。

morsにかけて訳すと「音楽のない死は人生だ」となり、vītaにかけると「音楽のない人生は死だ」です。

当然後者がよいと誰もが思います。でも、その根拠は?というと、それは文法ではなく、自分の判断によるものです。後者が正解というのは、こちらのほうが日本語として意味が通るからという以上の理由はありません。

一つの文について、二つ以上の訳し方が可能なケースはよくあります。その都度、前後関係に照らしながら、どの訳し方が妥当なのか、自分の中でディベートすることが多々あります。

ラテン語読解の面白さ(=難しさ)は、文法に即した正確な分析に加え、否それ以上に、上で述べてきた読み手の「判断」の正しさがいつも問われる点にあると言えます。

そして、この鍵を握る読み手の「判断」とは、ラテン語以外の部分、すなわち、日本語その他の言語の読解によって会得できるものなのだと申し添えたいと思います。

なお、上の引用文の訳語ですが、mūsaは芸術や学問でもかまいません。すなわち、「芸術のない人生は死だ」も「学問のない人生は死だ」もOKです。一文だけでは一つの訳語に絞れません。

じつは上の訳以外の可能性はまだあります。

上のラテン語を英語に直すと、Life without music is death.であり、英語と異なりラテン語は Death without music is life.も可能だということが上の説明の要旨です。しかし、ラテン語はこの英文のようにwithout musicをLifeにかける以外、「音楽がなければ」と副詞節のように訳すことも可能であり、この可能性も視野にいれておきたいです。

この場合、「音楽がなければ人生は死だ」となります。無理に英訳すると、Without music, life would be death.でしょうか。

単純に見える一文でもこのように日本語訳は複数ありえます。

2. Carpent tua poma nepotes.はどう訳すか?

Carpent tua pōma nepōtēs.
(carpō,-ere 摘む tuus,-a,-um あなたの pōmum,-ī n. 果実 nepōs,-ōtis c.孫)

いわゆる「正解」はリンク先をご覧いただくとして、この文も最低2通りの訳が可能です。

まず動詞に着目すると carpentは carpoの未来形で他動詞です。主語は何か、目的語は何か?と考えます。

pomaとnepotesはそれぞれ名詞です。どちらも複数形です。そして重要なことは、どちらも中性名詞である点です。

ラテン語の初歩をかじった人にはおわかりいただけますが、中性名詞は主格と対格が同じ形になります。

pomaは主格か対格か、この単語だけいくら見つめても答えは出ません。同様に nepotesもしかりです。

一方を主語にすれば他方を目的語にする必要があります。

1)あなたの果実は孫たちを摘み取るでしょう。
2)孫たちはあなたの果実を摘み取るでしょう。

2つの可能性があるわけで、文法的にはどちらも正しいです。日本語として読み比べると2)が正しいことは一目瞭然です。もっともホラーな文脈であれば1)が正しいこともありえます。

かりに辞書で単語の意味を調べ、文法的に正確に分析ができたとしても、今見てきたように、ラテン語は幾通りにも訳せるということで、ここに面白さを見出すか、手に負えないと思って投げ出してしまうか。

ラテン語のネイティブがいて、彼らと流ちょうな会話をしなくてはならないなら、瞬時に正解を口に出し、耳で聞いて理解する必要がありますが、実際にはラテン語を母語とする人は誰もいません。

我々は「書き言葉」の解読にいそしむことが求められています。

であれば、時間を味方につけ、英文法で培ったセンテンスの徹底的な分析力をフルに発揮し、さらには日本語の常識を総動員して、2000年前のローマ人との「文字を通じた心の対話」を楽しもうではありませんか。

Q. ラテン語の語順の自由さについて

Q. 突然のメールで恐縮ですが、私がラテン語学習で感じた感想を述べさせてください。ラテン語学習で私が特に(接続法の次に)面食らったのが、語順の自由さです。

古代ローマの人たちは、この語順をはたしてどのように受け止めていたのでしょうか。

例えば、こういう一節があります。

Parva necat morsu spatiosum vipera taurum.
順通り訳「小さいのが、殺す、一咬みで、大きいのを、蛇が、牛を。」

私はロシア語を長年学習していたこともあり、格変化などについてはほぼ理解できていますが、それにしてもこの語順は、人間の自然な言語としてはおよそ信じられないほどに出鱈目です。

これはどう理解すればよいのでしょうか。そして古代ローマ人はこれを耳で聞いてすぐ意味が分かったのでしょうか。

私が考えた仮説です。

仮説(1)順を追って理解していた。
上の例だと、まず「小さいのが殺すんだ、咬んだだけで、大きいのを」ということをとりあえず抽象論として押さえ、さらに「(具体的には)蛇が牛を」と後から聞いて納得する。実際、上の「順通り訳」を日本語として読むと、このような頭の使い方になると思います。

仮説(2)古代ローマ人にもわかりにくい文だった。
・悪文とまではいかなくとも、かなりわかりにくい文で、当時の人であっても聞き返していたのかもしれません。

仮説(3)詩の一節
この文も何らかの詩形式を守っており、母音の長短を意識した韻文であるのかもしれません。ロシア詩については大学で学びましたが、ラテン語についてはあまり知識がないため確認できません。

ラテン語の語順の自由さについて、先生のお手すきの際にでもぜひご意見を伺いたく思います。

A. お示しいただいたラテン文ですが、「でたらめな語順」というご指摘はまさにその通りです。

答えとしては、仮説の(3)が正解ですが、(1)も(2)も外れではないと思います。

Par-va ne | cat mor | sū spati | ōsum | vīpera | taurum と6つのメトロン(韻律)に分けることができます。
長・短・短 | 長・長 | 長・短・短|長・長| 長・短・短|長・長

ラテン語の韻律については、次のリンク先の解説が詳しくわかりやすいです。

ラテン文学の韻律(1) http://www.vdgatta.com/note_meter1.html

上のラテン文は、「ダクテュリクス・ヘクサメテル」の例です。

最初のPar- のaが「長い」のは「位置によって長い」ためです。

語順の件ですが、(1)、(2)も外れではない、という点について補足します。

今回のラテン文については、「韻律のせい」(ラテン語で metrī
causāといいます)だと説明できるのですが、散文でも「でたらめな語順」は頻出します。キケローを読むと、散文でありながら語順がこちらの期待を裏切ることがよくあります。何らかの強調を加える場合など、書き手の何らかの意図を反映しているので、それが何かをいつも考えさせられます。

別の角度から上の例文について見てみます。形容詞と名詞の関係にご注目ください。

A`: まむしの形容詞 / B`: 牛の形容詞  / A: まむし / B: 牛

A’ B’ A B とならんでいます。

視覚的にどんな印象を受けるでしょうか。まむしの体が牛の体とからみあっているかのようです。(こういうことを申し上げると、たいていにわかに信じていただけないことが多いのですが)。

ラテン語の詩は語順の自由度が高いことを利用し、このような視覚的効果を狙うことがしばしばあります。詩は耳で聞くだけでなく、目で読むこともありました。

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