以下は、オウィディウスの『変身物語』の伝えるエピソードです(中村善也訳)。ロミオとジュリエットとよく似た話ですね。

「無類の美青年ピュラモスと、これも『東方』だいいちの美女ティスベ–このふたりが、隣り合わせの家に住んでいたのです。セミラミス女王が高い煉瓦の城壁で囲んだという、あのバビュロンの都での話です。二人の馴れ初めは、家の近さが取り持ったということになりますが、時とともに、この恋がつのってゆきました。

親たちの反対さえなけれぱ、めでたく結ばれたふたりだったでしょう。でも、こればかりは、親たちにも反対のしようがありません。つまり、ふたりは、同じように気もそぞろで、恋の炎に身を焼かれていたのです。なかに立ってくれるような、腹心の友もありません。うなずきと目くばせが、語らいのすべてです。そして、つつめばつつむほど、炎は燃えたちます。

両家を境する壁に、細い裂け目がありました。むかし、建築ちゅうに出来たものでしょう。この孔(あな)は、長い歳月のあいだに、誰の目にもつかなかったのですが、この恋人たちが、はじめてこれを見つけました–何につけても目ざといのが、恋というものなのでしょう。ふたりは、この孔を、声の通路にしたのです。そして、いつも、うまいぐあいにこの孔から甘いささやきを送るのでした。ティスベがこちらに、ピュラモスがあちらに立って、たがいに相手の喘ぎをとらえあってから、しばしばこんなふうにいうのでした。

『嫉妬ぶかい壁よ、どうして恋人たちの邪魔をするのだ?わたしたちに、からだごと抱きあうことを許したとしても、いや、それがあんまりだというのなら、せめて口づけを交わせるほどの場所をあけてくれたとしても、それがどれほどのことだというのだろう?もっとも、わたしたちも感謝はしている。愛する耳もとへの言葉を送ることができるのも、おまえのおかげだとは認めている』

離れた場所から、むなしくこんなふうに語りあいながら、日暮れが近づくと、『さようなら!』といって、それそれが自分の側の壁に、しょせん向こうへはとどかない口づけを与えるのです。

あくる朝、曙(あけぼの)が星々を追い散らし、霜に濡れた草の葉が日差しに乾いたころ、ふたりはいつもの場所に寄って来ました。それから、つもる嘆きをか細いささやきに託したあと、ついにこんな取り決めを交わしました。夜のしじまが訪れたら、見張りの目をかわして、門の外へ抜け出すことにしよう。家を出たら、そのまま町はずれまで行こう。広い野原に出ることになろうが、そこではぐれたりはしないように、ニノス王の基で落ち合い、木の陰に隠れていることにしよう–そういうことにしたのです。じっさい、そこには、真っ白な実をいっぱいに垂らした木が–高い桑の木だったのです–冷たい泉のそばに立っているのです。

ふたりは、このような約束をしました。いやに遅々とした足どりのように思えた太陽も、西の海に沈み、その同じ海から、夜の闇が寄せて来ます。

夜陰に乗じて、門へ蝶番(ちょうつがい)をはずしたティスベは、家の者に気づかれないで、うまく外へ出てゆきました。ヴェールで顔を隠して、墓までやって来ると、いわれた木の下に坐ります。恋が彼女を大胆にしていたのです。–その時です。一頭の雌獅子がこちらへやって来るではありませんか。牛を食い殺したばかりで、ロを血だらけにして、近くの泉の水で乾きをしずめようとしているのです。遠くから、月の光でその姿を認めたティスベは、ふるえる足で、暗い洞穴に逃げ込みました。逃げながら、背から落としたヴェールを、そこへ置き去りにしました。

獰猛な獅子は、たくさんの水で渇きをいやし、森へ帰ってゆく途中、たまたまちょうど、置き去りにされていた薄衣を見つけて、血だらけの口でそれを引き製いたのです。遅れて家を出たピュラモスは、積もった砂ぼこりのうえに、まぎれもないけものの足跡を認めて、顔一面が真っ青になりました。そのうえ、血に染ったヴェールさえも見つかったからたまりません。おもわず、こう叫びます。

『この同じ一夜に、恋人ふたりが死んでゆく。ふたりのなかでは、彼女のほうこそ、生きながらえるのにふさわしかったのに。悪いのはぼくだ。かわいそうに、ぼくがおまえを死なせたのだ。危険にみちたこの場所ヘ、夜歩きをさせて、させた本人が遅刻するなんて!ぼくのこのからだを、罪深いこのはらわたを、荒々しい牙(きば)でくいつくすのだ、おお、この崖(がけ)下に住む獅子たちよ!が、ロ先で死を願うのは、臆病者のしわざだ!』

ティスベのヴェールを取りあげ、約束の木陰まで持ってゆきます。見知ったそのヴェールに涙をそそぎ、口づけして、こういうのです。『今こそ、さあ、ぼくの血潮も吸ってくれるのだ!』

腰につけていた剣を、わき腹に突きたてました。そして、すぐに、焼けるように熱い傷ロから、それを引き抜きました。あお向けに地上に倒れると、血が高く噴きあげます。水道管が破れて、裂け目ができると、細い孔(あな)から、しゅうしゅうと音をたてながら高々と水が噴きあがって、空をつんざきます--そんなさまに変わりがないのです。そばの桑の実は、血しぶきを浴びて、どす黒い色に変わりました。根も血を吸って、垂れさがる実を赤く染めるのです。

このとき、いまだに恐怖を捨てきれないでいるものの、恋人にはぐれてもいけないと思ったティスベがもどって来ました。血まなこで、懸命に若者を探すのですが、自分がどれほどの危険を避けていたのかを知らせたい一心です。場所をさぐり当て、木の姿にも見おぼえはあるのですが、実の色が不審を呼びます。この木だったのかしら、と迷うのです。そんな疑念にとらえられているうちに、何やら人影がぴくぴくと、地上にうごめいているのが見えたのです。驚いて、あとじさりします。顔は、つげの木よりも青白くなって、からだはがくがくと震えます--そよ風に水面をなぶられて、ふるえ動く海原(うなばら)のように。

でも、しばらくあとで、それが自分の恋人だとわかると、罪もない腕を高らかに打ちたたいて、嘆きをほとばしらせます。髪を引きむしり一いとしいからだを抱いて、傷口を涙で埋めますと、その涙が血と混ざるのです。冷たい顔に口づけしながら、『ピュラモス!』と叫びました。『何という不運が、あなたをわたしから奪ったのでしょう?ピュラモス、答えてちょうだい!あなたの最愛のティスベが、あなたの名を呼んでいるのよ。間いてちょうだい!うなだれた顔を起こして!』

ピュラモスは、ティスベの名を間いて、死の眠りで垂くなった口をあげ、彼女を見てから、ふたたび目を閉じました。

ティスベは、白分のヴェールと、中身のからな象牙の剣鞘を見てとると、こういいます。『あなたの手と、そして愛が、あなたの生命を奪ったのね、不しあわせなかた!でも、わたしにも、その同じことをするための雄々しい手と、愛がありますわ。その愛が、みずからを傷つけるだけのカを与えてくれるのよ。あの世へおともをいたしましょう。あなたの死の哀れな原因でもあり、その道連れともいわれましょうよ。死によってのみわたしから引き離されることのできたあなたが、もう、死によってさえも引き離されることはできないのです。おお、わたしのお父さま、それにこのかたのお父さまも、どんなにお可哀そうなことか!

でも、あなたがたに、わたしたちふたりからのお願いがあるのです。確かな愛が、いまわの刻(とき)が、こうして結びつけてくれたわたしたちを、同じお墓に葬っていただきたいのです。それに、この桑の木にもお願いが・・・。今は、みじめなひとりのなきがらを、枝の下に隠しているけれど、もうすぐ、ふたりのからだを覆い隠してくれましょうね。これからは、わたしたちの死の形見に、いつも、嘆きにふさわしい黒い実をつけてほしいの。ふたりの血潮の思い出にね』

こういって、胸の下に刃(やいば)をあてがうと、血のぬくもりがまだ残っている剣のうえに、うつ伏せになりました。でも、彼女の願いは、神々によって、親たちによって、聞きいれられたのです。桑の実は、熟しきると、黒っぽい色になるのですし、焼け残った彼らの骨は、ひとつの壷に眠っているのですから。」

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)
オウィディウス Publius Ovidius Naso
4003212010

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