勉強とは何か

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勉強とは何か

今日は英語の語源に絡めて、勉強とは何か、ということについてお話します。

『竜馬が行く』を書いた司馬遼太郎という作家がいます。司馬さんは中学時代に英語が大の苦手だったと告白しています。どうして嫌いだったかというと、先生に「ニューヨークってどういう意味ですか?」と授業中に手をあげて質問したところ、「そんな馬鹿な質問はするな」と怒鳴られたからでした。

先生にしてみたら、ニューヨークは有名な都市なので、そんなわかりきったことを質問するな、というつもりだったのでしょう。しかし、司馬さんは横文字をカタカナに置き換えておしまいというタイプの少年ではなかったのです。ご存知のように、「ニュー」は「新しい」という意味ですから、どうして「ヨーク」に「ニュー」がついたのかな?と思ったわけです。

それはちょうど、東京はなぜ東の京と書くのか?を質問するようなものですね。つまり、ここには言葉の歴史を尋ねる態度が見て取れるわけですが、英語の先生にしてみれば、授業に関係のないことを突然尋ねられたように思えて腹が立ったわけです。

しかし、このエピソードには、勉強とは何か?という問題を考える上で重要なヒントが隠されています。司馬さんの質問には、子供なら誰もが持っている健全な好奇心が認められますが、一方ではこの好奇心は学校の勉強には関係のないこととして、家庭であるいは学校で、簡単に摘み取られる危険と背中合わせだということです。

もっとも司馬さんの場合は、学校の勉強は相手にせず、図書館中の本を片っ端から読んでいったそうですが・・・。自分の疑問、質問を決していい加減にせず、先生に質問してだめなら図書館で調べて答えを見つければいい、というわけです。これこそ本物の勉強と言えるでしょう。

しかし、たいていの生徒は学校で先生に質問もしないし、図書館でとことん調べるということもしません。そうこうするうちに、高校になる頃には疑問すらわかなくなってしまうのではないでしょうか。一方、目の前に立ちはだかる大学受験は一種のクイズであり、早押しゲームのようなものです。いちいち「なぜだろう?」と考えるより、試験によく出る問題を絞り込み、その答えを暗記していったほうが手っ取り早いと考えるのも無理はありません。

実際、大学入試のセンターテストでは、全国で60万人近く!の受験生が同時にこれを受験しますが、米粒大の「マス」目を使って、「次の4つから正解をひとつ選べ。」という形式の問題を解いていくわけです。これも一種の「マスゲーム」ではないかと(笑)。

正解は必ずあるということ、また、出題される問題は事前に予想できること、したがって、出題されそうな問題とその答えを何度も繰り返しシミュレーションすることが、受験生の「勉強」の中身になっています。ここに問題があるとすれば、物事を学ぶ上で、好奇心を輝かせるのではなく、試験に出ることだけを「勉強する」(=暗記する)生徒が量産されることでしょう。

それにたいし、司馬さんの場合、他人に強いられた疑問に答えるのではなく、自分で自分に質問し、自分でそれに答えていった、という点が重要です。人間はロボットではないのですから、やはり好奇心、探究心のほうが大事ではないかと思うわけです。

実際、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんも、「若い人に何かメッセージを」と言われて、「好奇心を大切にしてください。自分の考えを自分の言葉で説明できる人になってください」と答えました。また、アインシュタインも “Never lose a holy curiosity.”(聖なる好奇心を失うな)と喝破しました。

自分の勉強が知識の暗記に終始しているならば、好奇心を大切にしていることにはなりませんし、自分の言葉で自分の考えを説明していることにもなりません。その点、司馬さんはオーケーですね(笑)。

もちろん、漢字の読み書きや基礎的な計算力の習得など「考えなくても取り出せる知識」をきちんと身につけておくことは大切です。それは当然のこととしても、では、人間はいつまで「知識の習得」に終始すればよいのでしょうか?逆に言えば、その知識を何のために役立てるのか?という疑問も大切なはずです。その答えが、「大学受験に合格するため」というワンパターンなものでしかないなら、多くの生徒たちが大学に合格したとたんに勉強しなくなるのも当然のことと思えます。

今日はそのあたりのことも含めて「勉強とは何か」についてお話したいと思います。

まず「勉強」を取り巻くいくつかの言葉について、その意味を検討することから始めましょう。というのも、まだまだわかっているようでよくわからない日本語はいっぱいあるからです。たとえば、「学校」とは何を意味する言葉でしょうか?英語ではスクールといいますが、元来はギリシア語で「ゆとり」を意味する言葉です。

しかし、勉強の中身を削減することで実現する「ゆとり」という意味ではなく、勉強に没頭できる精神的・時間的「ゆとり」のことです。日本には、今のような学校システムの伝統が大昔からあったわけではありません。大学というのは、もともとはギリシアのプラトンが作ったアカデミー(アカデメイア)がルーツで、2000年以上の歴史があります。その間に熟成された暗黙のルールやしきたり、その上に咲いている色とりどりの花があるわけです。

明治開国のころ、欧米の大学を視察した日本人はこの花を見て美しいと思ったに違いありません。しかし、それをはさみでチョキンと摘んで持ち帰っただけなら、それが枯れていくのは必然です。と、ちょっと物騒な言い方をしましたが(笑)、私は日本の大学によりよくなってほしいという願いをこめて、少し意地悪な言い方をしてしまいました。

たとえば、みなさんに質問です。大学はなぜユニバーシティというのでしょうか?この言葉に「大きい」という意味は含まれません。ユニとは「一」という意味です。なぜでしょうか?それから、宇宙というのは、ユニバースといいます。これもなぜユニという言葉で始まるのでしょうか?日本ではたまたま誰かが「大学」と訳しただけなのです。大学のシステムはメイド・イン・ジャパンではありません。単に学生の体が小学生に比べて「大きい」から大学であるとか、校舎が大きいから大学ということではないのです。

日本の大学が切花かどうか?これから豊かに花を咲かせるかどうか?という問題は、じつは、この「ユニ」がなぜ「一」なのかを理解する態度とも関わってきます。欧米のオリジナルの言葉で言えば、「小学校」は子供が小さいから「小学校」ということではありませんし、「幼稚園」は子供が幼稚だから「幼稚園」という意味でもありません。

小学校は英語でエリメンタリ・スクールといいますが、エリメントとは宇宙を構成する「元素」のことで、すべてを生み出す基礎という意味です。幼稚園については「園」という言葉が重要ですね。なぜ「庭」という意味が言葉に盛り込まれたのでしょうか?庭は美しい草木を育てる場所というニュアンスを持ちます。種をまき、ふたばに水をかけ、花を咲かせる。カルチャー(文化)という英語にはそういう意味が含まれます。語源は物を育てるという意味のラテン語──動詞コロー(育てる)の過去分詞クルトゥスがカルチャーの語源──にさかのぼります。

一方、「幼児」、「子供」という言葉についてですが、日本語では「大人」と区別して「小人」と書く場合もありますね。大人は文字通り「大きな人」という意味です。ところがラテン語では「子供」のことをリーベリーといいます。英語のリバティー(自由)の語源で、「何にもとらわれない自由な人」という意味です。逆に、ローマ人が「大人」と呼んだのは「先祖」のことでした。つづりは majores(マイヨーレース)で、英単語には major(メイジャー)というつづりで入っています。「大リーグ」のことを major leagueといいますが、一方、minores(ミノーレース)、すなわち「小人」は誰かというと、現代人のことでした。ローマ人の言葉では、大人も子供もひっくるめて、今はなき先祖のおかげで生きている「小人」に過ぎなかったわけです。

さて、話を「大学」に戻します。大学を意味するユニバーシティがユニ、つまり「ひとつ」という概念とどう結びつくかなんですが、これは絵を描くとわかりやすいです。ちょっと心の中で大きな山の絵を描いて見てください。その山の一番てっぺんは「ひとつ」しかないですね。この「ひとつ」の頂点は山の「すべて」を包んでいます。宇宙はなぜユニバースというかといえば、ちょうどふろしきのように森羅万象を包んでいるからです。同様に、学問の山の頂上をギリシア人は「真理」と考えました。「普遍」といってもよいです。ちなみに普遍のことを英語でユニバーサルといいますが、これもユニバーシティと語源は同じです。

山の頂点に到達すると、つまり真理を手に入れると、すべての現象が見渡せるし、理解できるというわけです。ちなみに、この山はどの入り口から登って頂上を目指してもよいので、大学には哲学や歴史、文学を考える学科もあれば、数学や物理のことを研究する学科などたくさんの登り口があるわけです。

田中耕一さんが歩んでいる道も、皆さんが少しでもよい研究成果をあげようと努力を重ねておられる道も、目指す先は同じでひとつなのです。その「ひとつ」というのがユニバーシティの「ユニ」の意味ですね。

この「頂上」のことをラテン語では「真理」(ベリタス)とみなしますが、プラトンですと、「善のイデア」ということになるでしょう。真理は存在するけれども、人間はそれを認識することはできない、つまり頂上に到達しそこに旗を立てた者は今まで誰もいない、というのが、世界で最初に大学を作ったプラトンの立場です。

彼はアカデメイアという場所で、若者たちにこのてっぺんを目指そうじゃないか、と呼びかけました。でも、てっぺんは「目指すこと」はできても、「登りきる」ことはできないという認識と自覚が重要です。それはなぜでしょうか?

プラトンの先生はソクラテスですが、神託によると「ソクラテスはギリシア一番の知恵者」であるとのことでした。彼は初めその神託を疑うのですが、最終的には合点します。自分は「何も知らないということを知っている」(=「無知の知」)、それなのに、世の中で知恵のあるといわれる人たちはみな「自分が知らないということを知っていない」(=無知の無知)、この点で自分の「無知の知」は「無知の無知」に勝るのだ、と。この考えを元に、ソクラテスは、山のてっぺんに到達したつもりの人間──要は「知ったかぶり」ということですが──を痛烈に批判していったのです。

さて、この「学びの山」のイメージを思い浮かべたときに、私たちはある意外なことに気づきます。それはステューデント(生徒)という言葉の本当の意味です。皆さんには、ステューデントという言葉をどういう日本語に訳すかを考えてほしいと思います。それとあわせて、勉強を意味するスタディは本当に勉強と訳していいのだろうか?と考えてみてください。たとえば、「勉強」の反対語といえば「遊び」と答える人が大半だと思いますが、英語の語源に照らした場合、それはちょっと違います。

種明かしをしましょう。ステューデントのつづり(student)は「勉強」を意味する英語のスタディ(study)と似ていますが、どちらも元はラテン語のストゥディウム(studium)に由来します。その意味を辞書で調べると、「情熱、熱意」という意味なのです。

ステューデント(student)というつづりは、ストゥディウム(studium)の動詞(studeo)の現在分詞形(〜している状態)ストゥデンス(studens)に由来します。直訳すれば、「情熱を傾けている人」という意味になります。

ちなみに、このステューデントという単語は、中学一年生の英語で I am a student.と例文とともに登場します。でも、中学生はこの文のもつ意味を何もわかっていないでしょう(笑)。「私は生徒です」と訳して「はい正解」ではもったいない表現です。中学生も大学生も、I am a student.と言うことができますので、ユニバーシティの含意する「学びの頂点」すなわち「究極の真理」を目指して汗をかいている人間としてどちらも同じだということがわかるわけです。

しかし、大学生である皆さんは、この例文の意味を今一度かみ締めてください。中学校では、この文をもとにした疑問文の作り方を教えます。Are you a student?(あなたはステューデントですか?)と。すでに述べましたとおり、ステューデントとは元来「学ぶことに情熱を燃やしている人」のことです。この意味を考えながら、この疑問文のメッセージを受け止めるとき、何か胸にぐさっと突き刺さるものを感じませんか?

しかし、それは先生と呼ばれる人も同じかもしれません。つまり、今ふれた学びの山には本来先生も生徒も違いはないのです。だれもがみな、真理(てっぺん)を求めて汗をかいている、という意味で、I am a student.と口に出して言うべきなのです。要は、ステューデントとは「真理を求めて努力する人」のことであります。

次に、先にお出しした質問「勉強の反対は遊びなのか?」について、もう少し考えてみたいと思います。まず、「遊びは英語でなんというでしょう?」というと、ほとんどの人がプレイ(play)と答えると思います。もちろん、それはそれで正解ですが、プレイという単語は日本語の「遊び」とは若干ニュアンスが異なります。

英語ではスポーツの競技や音楽の演奏のことをプレイといいます。動詞ですと、プレイ・サッカーとか、プレイ・ザ・ピアノといったふうに使いますね。プレイはまた「劇、芝居」という意味ももちます。英語ですと、シェイクスピアは偉大な「プレイ・ライター」だといわれます。

つまり、日本語の場合、「勉強」の反対の概念としてイメージされる「遊び」は、どちらかという「気晴らし」のニュアンスで使われますが、英語のプレイはスポーツや音楽に能動的に取り組む姿勢、言い換えれば、何らかの対象に夢中になって没頭する姿勢を意味し、その真摯な取り組みや活動は、芸術や文化の創造につながっていくことは私たちもよく知るところです(元々日本語でも遊びは管弦の演奏を意味したようですが、今は異なります)。

こうしてみると、英語の場合、スタディ(情熱)とプレイはまったく正反対の意味を持つ言葉というよりも、むしろ類義語のように感じられます。

ちなみに、オランダのホイジンガという学者は「人間とは何か」という定義について、ホモ・ルーデンスという言葉を残しました。ルーデンスはラテン語で「遊ぶ」という意味(厳密には「遊ぶ」を意味する動詞ルードーの現在分詞形)ですから、これは、ラテン語で「遊ぶ人間」を意味します。

でも、ラテン語の「ルードー」の意味は、今ふれた英語の「プレイ」に近いので、やはり気晴らしというよりも、芸術や文化につながる創造的な行為をイメージする必要があります。

「遊ぶ」という意味だけでいうと、動物も遊びます。母猫はしっぽをふって、子猫を遊ばせます。でも、人間ならば、子供でも劇をしたり、音楽の演奏をしたり、できるでしょう。でも、そんなことは猫にはできません。動物は音楽を演奏しないし、芝居を演じたり、詩を書いたりはできません。ラテン語でルードーの名詞はルードゥスですが、これは詩や文学作品を意味します。もっと意外なのは、ルードゥス(英語では名詞のプレイ)には「学校」という意味もありました(笑)。

さて、このような議論を踏まえて、英語のスタディの反意語を挙げるなら、私は「無気力」や「無関心」を意味するアパシー(apathy)という単語を思い浮かべます。

アパシーといえば、ステューデント・アパシーという言葉を耳にされた方もいらっしゃるのでしょう。「無気力な学生」を言い表した表現ですね。アパシーとはもともとはギリシア語です。アパシーのアとは否定の接頭辞で、日本語で言うと「不安」の「不」みたいなものです。パシーの部分は「感動、感情」を意味しますので、「情熱のわいてこない状態」を文字通り意味しているわけです。

たとえば、シンパシーという言葉は「同情、共感」と訳しますが、この単語のシンの部分はシンポジウムのシンと同じで、「一緒に」という意味です。ですから、パシーとあわせると「感情を同じように動かすこと」すなわち「同情」という意味になるわけですね。また、シンポジウムのポジウムは「飲む」という意味なので、語源に照らして訳すと「一緒に飲むこと」を意味します。一緒にお酒を飲みながら、つまり、打ち解けた状態で森羅万象の問題を議論するという伝統がギリシアにはありました。今はシンポジウムというと堅苦しいイメージがありますが(笑)。

さて、ステューデント・アパシーに話を戻すと、この言葉は、勉強にも遊びにも夢中になれない若者の実態を照らす表現ですね。まじめに大学に通う点では、「大学生」のように見えても、英語の語源に照らした場合、本当にステューデントであるといえるのかどうか、大学で夢中になれるものが見つからずに苦しんでいる人も中にはいるでしょう。(私もそうでした)。

一方、幼稚園時代のことを思い出してください。アパシーだったでしょうか?どうでしたか?みんな生き生きしていませんでしたか?しかし、それと同じくらい、大学生になっても勉強や遊びに夢中になっているといえるかどうかが今問題なわけです。自分はこれがやりたいんだ、と。人生をかけてこの山を一生懸命登っていきたいんだ、と言えるものがあるかどうかですね。

学生である皆さんは、アイム・ア・ステューデント!と胸を張るためにも、一度胸の炎の大きさを確かめる必要があります。一方、大人は大人で、誰か山道のガイドをしてやってくれないかとか、山道はしんどいからエレベータをつけてやってくれ、とか議論しているのではないでしょうか?大学生を子ども扱いしてはいけません。

本来山道は険しいものであり、だからそれを登る喜びもあるのです。山を登る喜びは、言い換えれば山道の厳しさが前提です。そこで汗をかくことが比ゆ的な意味で「学び」にほかならず(ステューデントの意味参照)。それはまた、動物にもまねのできない人間らしい「遊び」といえるわけであって(プレイの意味参照)、その逆の言葉とは、汗もかかずじっと静かにしていること(アパシーの意味参照)、つまり、時間つぶしとしての「遊び」に終始することである、と述べたわけです。

ちなみに、「時間つぶし」とは英語でキル・ザ・タイムと表現します。「時間を殺す」という物騒な表現ですね。ミヒャエル・エンデの『モモ』には「時間は命である」というメッセージがこめられていますが、ラテン語でもホーラ・ウィータ・エスト(英語で訳すとタイム・イズ・ライフ)という言い方ができます。タイム・イズ・マネーではありません(笑)。つまり、日本語では「時間をつぶす」といいますが、欧米人の発想では「人生を殺す」と表現するわけですね。

ひるがえって、今の学校では「時間を生かそうとする」子供たちが多数派なのか、少数派なのか?先生もたいへんだと思います。元来、点数化できないものを点数化しなければならないつらさがあるからです。生徒たちは生徒たちで、評価されなくてもよいものを評価されねばなりません。

「大学に続く山道を登るためには、それも仕方がない」といわれるかもしれません。では、大学に入ったとたんに、「もう勉強休んでいい?」としゃがみこむ学生が多数いるという現実、この矛盾に対してはどう考えればよいのでしょう。このことについては、先生の授業能力の稚拙さが取りざたされますし、大学生の基礎学力の低下も指摘されます。でも、本当の原因は、100点満点の枠内での「評価」が、子供たちから勉強に対する情熱や知的好奇心を奪ってしまう点にあるのではないか、と私は申し上げているわけです。

小学生にせよ、中学生にせよ、生徒たちから好奇心を奪うのは簡単です。5段階の評価や試験の成績(よくても悪くても)の重要性を強調していけば十分だと思います。あるいは、冒頭でお話した司馬遼太郎氏のエピソードのように、「そんな馬鹿な質問をするな!」と一喝すれば、一瞬にして可能です。学校で勉強すればするほど、生徒たちは「試験に出る内容が重要なこと」で、「試験に出ないことは無駄なこと」と考える癖がつくのではないでしょうか?幼児のころに誰もが持っていた好奇心は学年があがるにつれて、見る見るうちに萎えていくのです。

子供たちを数字によって評価しないことは、彼らを甘やかすことではありません。逆に、数値化された評価を期待した努力こそ「甘え」であるともいえます。つまり、何点取ればそれでいいのだろう、という漠然とした考えがその背景に認められるからです。この考えは勉強の喜びに直接つながりません。今の学校の提供する100点満点という山の頂上は、本当の意味での学びの山の頂点ではないということ、少なくともプラトンはそう考えていた、ということなのです。

評価のないところで、人間は自由に遊ぶことができる、夢中になって汗をかくことができるものです。幼稚園はその見本であろうかと思います。多くの人にとって、幼稚園時代は楽しかったと言います。評価は評価でも、人間としての評価(言葉による励まし等)がそこにはあったからです。人間として、つまり、5段階や100点までの数字で置き換えられない存在として、自分が自分として認められ、生きていたわけです。

幼稚園時代に先生が子供たちに注ぐまなざしを、本当は小学校、中学校、高校、大学の先生も、生徒や学生たちに注がなければならないのです。ところが、さきほどから申していますように、小学校以上では何かモノサシを当てて子供たちを評価しないといけない現実があるわけです。しかしながら、この状況に絶望する先生もいれば、一方では生徒の目線に立って努力や工夫を怠らない先生もいらっしゃるわけであり、そこに希望を寄せることもじゅうぶん可能と思われます。

ただ、そういった個々の対応の是非とは別次元の問題として、日本語にまつわる言葉の問題はやはり大きいといわざるを得ません。先ほどから述べてきたとおり、「大学」や「学生」、「勉強」や「遊び」の本来の意味を吟味することの重要性を今一度強調したいと思います。また、学校で学ぶ生徒たちについて、「小さい」とか「幼い」という言葉──幼児とか子供といった言葉──で表現せざるを得ない言語が日本語であるという点も意識しておく必要はあるでしょう。このような言葉の一つ一つが、知らず知らずのうちにある種の偏見を私たちに植え付けていることは確かなことだからです。

たとえば、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学・・といった順番で日本語を並べてみたとき、そこには歴然と「大小」の対比が見て取れます。しかし、すでにご説明したように、英語のユニバーシティには「大きい」という概念は含まれませんし、「小学校」を意味するエリメンタリー・スクールに「小さい」という意味も含まれません。このことに気づくとき、先生も生徒もともに「学びの山を登るステューデント」である、という考え方も違和感なく理解していただけると思います。

ここで少し、私自身が日ごろどのような英語の授業をしているのか、お話してみたいと思います。すでにお話したとおり、大学生にとって、一人一人が自分の考えを自分の言葉で発表するというのは大事なことです。つまり、どこかで定義済みの情報を暗記する、すなわち、絵で言えば「塗り絵」をするのではなく、自分で白い紙に絵を描いていくという勉強態度が、特に大学生では大事だと思います。

そこで、私は実際、毎回白い紙を配っています(笑)。よく「想像力を発揮せよ」といいますが、何かにとらわれるのではなく、心を自由に遊ばせることが大事ですね。つまり「遊び心を発揮して」英語の文章を書くというのが私の授業の課題です。

自分がこの1週間で体験したこと、感じたことについて書きなさい、と。見た映画のこと、新聞のニュースについて、英語で文章を書きなさい、というわけです。みな、がんばって書いてくれます。それを集めて添削し、翌週返すわけですが、面白いと思った英文は私がワープロにタイプしてB4一枚にまとめます。本当は全部載せればいいのですが、3クラスで120人くらい学生はいますので、どうしても取捨選択せざるを得ません。

次にどうするかというと、掲載されたいくつかの文章を学生に読ませて、そのどれかを選び、英語で返事を書くようにさせます。この過程で何か面白いやり取りが生まれたら、そのコメントも翌週プリントに載せて紹介する・・・といった具合です。

それぞれの文章には学生のイニシャルしか入れませんので、どれをだれが書いたのか、あまりよくわかりません。また、文中の Iは、男性か女性かも定かではありません。そのあたりの匿名性も学生にとっては興味を引く要素のようです。

同じ問題に対して、いろいろな学生がいろいろ面白いことを書いてくれますし、それをみなで読みあっているうちに、不思議な連帯感が生まれてきます。

自分の思ったことを自分の言葉で相手に伝えきったときに、喜びは生まれるものです。自分の片言に対して、見たことのない誰かから「私もそう思う。」と返事がくれば喜びもひとしおです。このようなお手紙式の文章のやりとりですと、自分が何かを表現する行為は、自分という殻の中の閉じた世界での営みにとどまらず、誰かがきっとどこかで読んでくれる、きっと誰かが自分の心を受け止めてくれる、という気持ちのつながりが感じられるようになっていきます。

難しくいえば、「勉強の社会化」というのでしょうか。実際この話には尾ひれがついていて、私はインターネットを10年位前から使っているのですが、授業用に作った文書ファイルはそのまま私のホームページで公開していますので、海外からもアクセス可能です。学生にとっては、言葉のやりとりがクラスの枠を超えて、世界に広がるわけです。

このことがご縁である面白い体験をしました。ある年の暮れにアメリカ人の男性(マーティンさん)から電子メールが届きました。sarasoju(漢字だと「沙羅双樹」)で検索したら、なんと私のホームページを見つけたというのです。なんでも、11月に奥さんと二人で京都を訪れ、生け花を少し習ったそうです。そのとき、使ったのが、サラソウジュの木で、大変美しい木だと思ったので、カリフォルニアの自宅の庭にこの木を植えることができないかと考えて情報を検索したら、図書館には情報がない。というので、インターネットの検索エンジンに sarasojuと入れて調べたら、私のページに出会ったというのです。

「でもどうして?私はそんなことについて書いた記憶はない」といぶかしく思っていると、「あなたが sarasojuの専門家でないことは知っています。昨年の6月24日に学生が書いた英文の中に、sarasojuの言葉が使われていて、検索エンジンで見つけることができたのです。その情報が、この広大なワールド・ワイド・ウェッブの中で、私が見つけた唯一の sarasojuの情報でした」と結んでいました。

なるほど、こういう形で人と人がコミュニケートすることもできるのかと実感した次第です。この一本のメールを機に、マーティンさんとのやりとりがつづき(仏教、生け花、その他についてお互いやりとりしました)、私は日本の歴史と文化の素晴らしさを再認識することができました。マーティンさんは、「サラソウジュの花が咲いたら、写真を送るからね」と約束してくれました。

インターネットの凄さは、よきにつけあしきにつけ、自分のさりげない表現がいつも世界の眼にふれているという点にあります。それがよい形で機能するとき、個人の表現は、無上の喜びにつながっていく可能性をはらんでいます。小さな子供たちも、クラスで自分の描いた絵が飾られ、みなの眼に触れることで喜びを感じるものではないでしょうか。原理は同じなのです。

しかし、少なくとも私が受けた国語の教育では、表現の促しというのは学校ではほとんど体験しませんでした。中学、高校の六年間を振り返っても、英語の授業で自分の考えを英語で書くように求められたことは一度もありませんでした。先ほどから申していますように、本当に大事なものは採点できないのですが、そういう「曖昧なもの」は授業では扱わないし、生徒も期待しなくなっているのですね。

たとえば、夏目漱石の文章を読んで、「文中の「それ」は何を指しているか?」という問題をいくらこなしても、あるいは「主人公の心情は次のどれか、選べ」という設問の解答をいくら説明されても、私たちは漱石の心に肉薄できません。いつも妥当な解釈を4つの選択肢にまぎれこませ、そこから1つの答えを選択させているようでは、国語の勉強も退屈になるだけでしょう。

さきほどから私は、表現が大事だとか、日本の教育では表現がほとんどなおざりになっているといった趣旨のことを述べていますが、この問題をもっと正確に議論するために、ここで「表現」と対に用いられる日本語が何か、皆さんにお考えいただきたいと思います。どうでしょう?すぐに言葉が思い浮かびますか?

この問題は英語で考えたほうがわかりやすいです。つまり、「表現」を意味するエクスプレッション(expression)とペアをなす英単語は何か?です。答えは、インプレッション、つまり「印象」という言葉です。「表現」も「印象」も英語の訳語ですが、日本語で考える限り、「表現といえば印象、印象といえば表現」といった具合に、両者を対にして議論することはありません。

でも、それはおかしいわけです。元の英単語ですと、表現を意味するエクスプレッションと印象を意味するインプレッションは、つづりを見ただけで両者が反対の意味をもっていることがすぐにわかるでしょう。ちょっと種明かししますね。

ex-pression(表現)と im-presshion(印象)は、ちょうどexと imの部分が反対の方向を向いています。exは「外へ」という意味で、imは「中に」という意味です。英語で「輸出」は ex-port、「輸入」は im-portとなります。「教育」は e-ducation(エデュケーション)といいますが、ducationとは「導くこと」を意味しますから、エデュケーションの直訳は「(人間の可能性を)外へ導くこと」となります。

では、エクスプレッション(表現)とは「外に」何をするのでしょうか?プレッションが気になりますね?一方、インプレッション(印象)は「内に」何をどうするのでしょう?プレッションの動詞はプレスといって、ものを「押すこと、圧力」です。名詞にプレッシャー(presshure)という単語もありますが、重荷が人を「押しつぶす」様子を言い表しています。

つまり、「印象」とか「表現」という言葉は英語で考えれば、何が何に対して圧力を加えるのかが問題になるわけです。さあ、どういうことでしょう?

私の解釈(正解ではありません)を述べさせていただきます。まず、ミカンをひとつ想像してください。柔らかいミカンです。それを両手で押していきます。ぎゅっと押して、そのミカンを押しつぶしてください。何が飛び出してきますか?そうですね、ミカンの汁が飛び散ります。こうやって、両手で「内側に」ミカンを押しつける力、これがインプレッション(印象)だということです。逆にその結果として「外側に」ほとばしるものがエクスプレッション(表現)だと私は考えます。

では、このミカンそのものは何を表しているのでしょう?それは私たちの「心」だと思います。「胸が締め付けられる」と表現が日本語にはありますが、英語ではそれをムービング(moving=感動的)といいます。「心を揺さぶる」力をイメージさせる言葉ですね。

さあ、もう一度イメージの中で、自分の心をぐっと押しつけてみてください。それは手でなくてもいいわけです。感動的な言葉や経験、それは目から入ってくるかもしれませんし、耳から聞こえてくる音色かもしれません。自分の心を揺り動かす大きな力を想像してみてください。

この力は自分の心に強い「印象」を与えるだけで終わりません。感動して喜びを感じるとき、人の心から何かがほとばしり出るのではないでしょうか。誰かにその気持ちを伝えたい衝動に駆られるのではないでしょうか?

今述べてきたことを整理しますと、内側に(インプレスの「イン」)向かう圧力(インプレスの「プレス」)が、ある限界に達すると、自ずと外側に(エクスプレスの「エクス」)向かいます。この関係がインプレッションとエクスプレッションの関係です。

この関係に注意しますと、「表現」よりも「印象」の方が順序は先だということがわかります。みかんは先に皮を引っ張ったのではだめで(すぐに皮がめくれます)、先に内側に向かって押しつけないと果汁のほとばしりはありえないのです。

再び、今の学校教育に話を戻すと、このような「表現」と「印象」の順序がどうなっているのか、よく考えてみる必要があります。心に残る「印象」がなおざりにされて、模範解答的な「表現」の「暗記」(模倣でなく)に指導のポイントが置かれていないか、どうか。

この「表現」ということに関して、ぜひここで紹介したいエピソードがあります。ヘレンケラーがデカルトの言葉に出会い、心の目が開かれたと述懐するお話です。

ご存知のように、ヘレンケラーは目も耳も口も自由ではありませんでした。私は高校時代にヘレンケラーの書いた英文を読み、強い感銘を受けました。その中で、ヘレンケラーはデカルトの I think, therefore I am.(我思うゆえに我あり)という言葉に出会って、「この5つの力強い単語が私の心の中に生涯眠らない何かを呼び覚ました」と書いていました。

「我思うゆえに我あり」というデカルトの言葉は皆さんもよくご存知です。試験に出るからですね(笑)。デカルトの二元論だとか『方法序説』だとか、そういった単語も知っているかもしれません。でも、ヘレンケラーのように、デカルトの言葉に出会って心の目が開かれる感動を覚えたか、どうか?さあ、みなさんはいかがでしょう?逆に質問をしますと、デカルトの言葉はどうして三重苦の彼女の心を開いたと思われますか?

私にとって日本語は大事な言語です。しかし、日本語だけで発想している限り、私はヘレンケラーの心にシンパシーを感じることはできないように思います。今から述べるのはそういう話です。

ヒントは thereforeの使い方です。「ゆえに」というのは、前の文章と後ろの文章を論理的につなぐ働きをしています。たとえば、「今日は授業がある。ゆえに、私は今ここにいる。」という文章に対して、「なぜあなたはここにいるのか?」と尋ねてみます。すると、「今日は授業があるからだ」という答えが返ってくるでしょう。つまり、「ゆえに」の後ろの文章についてその理由を質問すると、「ゆえに」の前の文章がその答えを返してくれる、という構造がわかりますね。

では、デカルトの文章について同じことを試みます。I amの部分について質問してみましょう。ここで be動詞は「存在」を意味しますので、「我あり」という日本語になります。わかりやすくいえば、「私は生きている。」と言い換えてもいいでしょう。「なぜあなたはこの世にいるのか?」あるいは「なぜあなたは生きているのか?」と聞くと、「私は考えているからだ」という答えが返ってきます。

ヘレンケラーは自分のハンディを心の重荷としながら、「自分はなぜ生まれてきたのだろう?」、「なぜ生きているのだろう?」と、人一倍生きる意味を考えていたに違いありません。その答えはデカルトの言葉にあったわけです。「あなたは考えている。だから生きているのだ」と。

盲目のヘレンケラーは、音や光にあふれる世界で行動する自由は奪われましたが、内面の自由、すなわち思考の自由を奪われたわけではありませんでした。彼女はこのことを認識し、歓喜するわけです。目をつむっても、耳を閉じても、考えることはできますね。それが生きる証なのだと理解したわけです。また、この思考の自由を可能にし、ひいては外の世界とのコミュニケーションを可能にする道具としての「言葉との出会い」にも感謝しています。

thinkとは「考える」のであって「思う」のとは意味が違います。「考える」というのはぼんやりと物思いにふけるのでもなければ、他人に答えを求めることでもありません。その意味では「疑問を持つ心」、「好奇心」と密接につながるものです。自分の考えは自分が一番うまく表現できるはずのものですね。それが十分にできていないとすれば、「私はうまく考えることができない。それゆえ、私は生きている実感がわかない」となるのでしょう。もちろん、この気持ちは私も含め、誰もが経験することです。しかし、だからといって、どこかに正解があるのではないかと、いつまでも他人に答えを求めていては、自分の考えを表現することが疎かになります。

先にも申しましたとおり、厳密な意味で言えば、考え方の正解はありませんし、表現の仕方にも「これがベスト」といえるような模範もありません。下手でも自分で考えたことを白い紙に書いていくということ、言い換えれば、塗り絵をするのではなく自分の考えを自分の言葉で形にしていくということ、つまり、根気よく「表現」していくことが何より大事です。

しかし、ここで私は思うのです。ヘレンケラーとは逆に、生まれつき思考の自由を奪われている人、知能に障害を持って生まれてきた人も世の中にはいるのではないか、と。赤ちゃんはもちろんのこと、幼稚園児にしてもまだまだ自分の思考を扱うことには未熟ですね。しかし「表現」はどうでしょうか?人間が人間である限り、人として誰もが何かを表現する力とチャンスを持っているのではないでしょうか?そういう意味を込めて、私はデカルトに倣って──あるいは逆らって── I express therefore I am.である、つまり「我表現す、ゆえに我あり」、「私は表現する。ゆえに私は生きている。」という言葉を皆さんにプレゼントしたいと思います。

さて、先にも説明したとおり、「表現」の鍛錬やそのチャンスの拡大は、どれだけ「印象」に残る経験を重ねるかに依存しているといえます。もう一度、先ほどの「印象と表現」の話を思い出してください。そして、赤ちゃんが母親の笑顔に答えて微笑みを返す、という光景を思い浮かべていただければありがたいです。

ところで、今触れた「印象に残る経験」ということですが、それは喜怒哀楽のすべての経験を含むものだと思います。そのすべてを含むがゆえに「豊かな経験」と呼びうるものになるのです。その意味で、苦しみや苦労という経験も、それが個人の中で印象深い経験に熟成するなら、いずれ豊かな表現につながっていく、言い換えれば苦しんでいる他人を励ます原動力に転ずる日も訪れるでしょう。

しかし、今は少子化ということで、親は子供に「勉強」はさせるけれども、「苦労」はさせないように思われます。いかがでしょうか。「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がありますが、「かわいい子だから旅をさせない」というのが今の世相ではありませんか?「勉強」が「旅」である、という説もありますが(笑)、今の時代の「勉強」はもはや本物の勉強とは呼べないものであり、「苦役」と呼ぶべきものとなっています。それは、誤解を恐れずに言えば、人間が機械になる道であります。であれば、家でも学校でも「旅」はできないのが今の時代の特徴といえるかもしれません。

学校教育が黒板や教科書の文字を暗記することを中心とする限り、また、試験が○×式の問題を中心とする限り、そこには本当の意味での「印象」や「表現」の出る幕はありません。機械的なやりとりが勉強の中心になると、いつのまにか幼稚園時代には当たり前だった「好奇心」が学年とともにだんだんしぼんでいく、ということですね。

それに対し、「印象」や「表現」は、本来「苦しみ」や「喜び」と不可分です。英語には No pain no gain.(苦しみなしに収穫なし)という言葉がありますし、ギリシアの詩人ヘシオドスも「神は幸福の前に汗を置いた」と述べています。たしかにロープウェイで山頂に着いたとしても、歩いて頂上に到達した喜びにはかなわないでしょう。後者にこそガッツポーズは似つかわしいと思います。

生涯学習という言葉が言われますように、人生は一生勉強の連続なのでしょうし、本当の勉強はやはり山登りに似て、生涯続く終わりなき旅のようなものです。大学入試に合格したから「もう遊んでいい?」という「勉強」とは本質に違う「勉強」なのです。つまり、どこまで登ったからもう終わりということはないわけです。

逆に言えば、人間は死ぬまで歩き続ける自由と喜びが用意されているともいえます。田中耕一さんのような人でも、「ノーベル賞を取ったからもう「勉強」は終わり」というわけではないでしょう。彼こそ「まだまだ勉強はこれから」と強く決意しているのではないでしょうか。

「勉強の山道」にはさまざまな苦しみや悲しみも内包されていますが、それは旅も同じことです。旅行記──ひとつの「表現」──は失敗や苦しみが多いほど内容は豊かなものになるでしょう。旅は目的地に着くことだけが目的ではなく、そのプロセスを楽しむことが重要であるといわれるように、私たちの勉強という営みも、社会に出てからの人生も含めて「学びの機会」がそこら中に転がっているのだと考えること、つまり、生涯向上心を持って──好奇心を輝かせて──さまざまな「印象」深い経験を重ね、豊かな「表現」──子供を育てることも、仕事をすることも自分の「表現」です──を世の中に伝え残していってほしいと思います。

ある意味で、どこかでよく耳にするお話だったかもしれませんが、今日は英語の語源を探りながら、勉強の意味について日ごろ私が考えていることを整理してお話をさせていただきました。では、終わります。


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