お山の絵本通信vol.200

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『のげしとおひさま』

甲斐信枝/文・絵、福音館書店2007年

桜が散ると、つぎには花水木、山吹、藤、つつじが目にとまります。それらも散る初夏になると、薔薇がいよいよ咲きはじめます。このように自然は、日々なにかで目を楽しませてくれます。いっぽう、花期をすぎた草木にも、時間は止まることなく流れます。茂り、実り、枯れ、そしてまた咲く準備をします。

絵本は、ときに詩の心で、ときに科学の心で、こうした「くり返し」や「気付きにくいこと」に目を向けさせてくれます。

今回ご紹介する『のげしとおひさま』も、自然のサイクルを描いた作品です。この絵本を読んで、私も、のげしのような雑草の一年に注意を向けられるようになりました。

この作品の「のげし」は擬人化されていて、悩みが一つだけあります。それは、「すきなところへいけない」ことでした。のげしのまわりには、かえる、あり、ちょうちょ、てんとうむしが集まってきます。のげしはそれらの小動物をうらやましく思います。

そこで、のげしは、おひさまに相談します。おひさまは、「わたしのひかりをいっしょうけんめいすいこむ」ことをアドバイスします。のげしはその通りに実践し、やがて黄色い花を咲かせます。そして、おひさまの光をすいつづけます。けれども、願いはいっこうにかないません。のげしはがっかりします。「おひさまのいったとおりにしているのになあ」と。

それから数日間、花が開かなくなりました。そしてつぎに開いた時にはまっ白くなっていました。のげしは「たいへん」と不安におそわれます。

ところが、その時。「だいじょうぶ。そのままゆっくりひらいてごらん」と、おひさま。白いのは、綿毛になったからでした。種が、風に乗って飛んでいきます。それを小動物たちが見送るところで、この絵本は終わります。

のげしのセリフはとても短いです。それだけに、のげしの気持ちをあれこれイメージできます。花が開かなくなった時。白くなった時。のげしは何を思ったのでしょうか。お子さんといっしょにお話しながら読むと、面白いと思います。

もちろん、のげしは、悩んだり、期待したりはしません。けれどもそのように見つめるのは詩の目です。いっぽう、綿毛への変化を辛抱強く追うのは、科学の目です。その両方のまなざしで、この絵本は読者を「驚き」へといざなってくれます。

おひさまは、『のげしとおひさま』の名脇役と言ってもいいと思いますが、その「おひさま」で思い出したことがあります。私が幼稚園に通っていたころ、次のような詩を、担任の先生が書き残してくれたことです。

      先生 太陽ってなんぼある?
      山科の家にいったときもあったで──、
      山口の家にいったときかって ───、
      北極にも 南極にも あるんやろ──、
      先生 屋上にも太陽あるな ───。
      先生 見張りしてゝや ───、
      僕 運動場にもあるか見てくるからな!

当時の私の目には、太陽が複数あると見えたようです。そのことにうなずいてくれたのは、幼稚園の先生に、詩の心があったからでしょう。そして、私が忘れてしまうことを知っていて、再現できるように活字にしてくれたのです。その先生の心のひだの新鮮さには、今でも感謝しています。

そして上の詩と関連し、去年、はっとしたことがありました。図書館の前で、偶然、園児の一人(Mちゃん)と出会った時のことです。Mちゃんは、私を見つけるなり、いつものように手を振ってくれました。自転車置き場で。階段の途中で。そして二階の踊り場で。私もバイバイをくり返しました。その時は、三回とも「同じ」に思えたのですが、後ではっとしたのです。

本をかばんにつめる私。自転車を出す私。そして立ち去る私。その一瞬一瞬に、「異なる私」を見て、挨拶してくれたのではなかったか、と。かつて、私が太陽を見に走り出したように、一回一回、手を振ってくれたのではなかったか、と。

その時、Mちゃんにバイバイした自分の心がザラザラしていなかっただろうか、と反省しました。そして、Mちゃんのキラキラした目が、つねに新しい私を見ているとしたらと考えて、背筋を伸ばしたのでした。

倉橋惣三の『育ての心』に、「恐るるは、心のはだの触れあいだ。子どもの、あのやわらかい心のはだに、われわれの此のがさがさした心のはだで触れることだ」とあります。その言葉通り、心のはだを新鮮にして、子どもたち──未来の大人たちと接していきたいと思います。

文章/Ryoma先生