お山の絵本通信vol.122

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『もりのかくれんぼう』

末吉暁子/文、林明子/絵、偕成社1978年

先日山の学校の本棚を眺めていると、ふとこの絵本が目に留まりました。以前小学生の「ことば」クラスを担当していた頃、子どもたちのリクエストに応えて読み聞かせをしたのがこの本でした。季節は秋。作品の舞台は、幼稚園の奥に続く森とイメージの中で見事に重なります。

「森に行こう!」

本を読み終わると、全員の足が森に向かいます。現在幼稚園で「ひみつの森」と呼んでいるあの場所を、「ことば」のメンバーたちは即興で「かさこその森」と名付け、しばし絵本の余韻を楽しんだのでした。

作品の内容は夢物語のように幻想的で、ある女の子がふとしたはずみに都会の中の「森」に迷い込み、さまざまな動物たちとかくれんぼうをするというものです。夕ぐれ色に染まる森の中で上手に隠れた動物たちを探し出すのは大人にとっても楽しく、子どもと一緒に心躍らせて読み進めることができること請け合いです。

作品の最後に至ると女の子は自分を呼ぶ兄の声に覚醒し、現実世界に連れ戻されます。ただし手には森の木の枝を一本携えて。それまでの出来事は、「夢だけど夢じゃない」というわけです。

作品の背後には、開発され失われていく自然への哀惜と文明批判の香りを感じ取ることができますが、それは大人の読み方というもの。林明子氏による丁寧に描きこまれた挿絵の一枚一枚が、大人の中の童心を呼び覚まし、子どもの冒険心を活性化させるでしょう。とりわけ、幼いころ一人で自然の中で時を過ごした者には、過去の自分と再会するような懐かしい気持ちにとらわれるはずです。

かくいう私がその一人で、私は小学校時代、学校から帰ると一人で幼稚園奥に出掛けては、あちこちの木に登ったり、藪に分け入り秘密の道を発見したり、夕暮れになるまで遊ぶのが日課でした。男の子だったせいもあるのでしょうか、一人でどこで何をして過ごしても、親にはまったく何もいわれずにすんだのは、今から思うと幸福でありました。自由の二文字について、学問的にどれだけ詳しく定義されようと、私の中では「あの経験」こそが自由そのものの定義であり、これからもそうであると確信しています。

さらに思い出をたどると、私の家では夏の恒例行事として「肝試し」があり、その舞台となるのが今述べた「かさこその森」でした。漆黒の闇の中、懐中電灯を片手に森の中を進んでいく。歩くたび、自分の足音が他人のそれのように感じられ、思わず走りながら父の待つゴールにたどり着いたときの安堵の気持ちは今も忘れません。ある年は、ゴールすると同時に宝が池あたりから花火の音が聞こえ、見上げると夜空を彩る花火の輪。息を飲んで眺めたこともありました。

大人にとっての絵本の楽しみの一つは、このように子ども時代の自分と再会できることだと思われます。ただ、今回ご紹介した絵本を読みながら幼い頃の思い出が鮮やかに蘇るとすれば、それは誠に幸せなことといわねばなりません。この半世紀近くで社会も環境も大きく変わり、森の中で子どもが自由に時を過ごすことは――しかも一人っきりで過ごすことは!――今では考えられない夢の話になりました。しかし、少なくとも本園の子どもたちにとっては、まったくの夢物語とはいえますまい。今年度、特にこの三学期を振り返ると、子どもたちは毎日「ひみつの森」に出掛けては、木登りや追いかけっこなど、めいめいが思い思いの時間を楽しんでいますので。

幼少時代に自然の中で経験する一つ一つの出来事は、たとえどんなにささやかなことに見えても、年を経るごとに自分を支える思い出に結晶していくものだと私は信じております。このことを胸に刻み、これからも子どもたちとともに、山の上での自然体験を大切にしていきたいと思います。

文章/園長先生