お山の絵本通信vol.102

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『てぶくろをかいに』
 新美南吉/作、いもとようこ/絵、金の星社2005年

原作は新美南吉の代表作の一つです。調べると挿絵にはいくつかのバージョンがあるようです。表紙を見ているとどの絵も素晴らしいと思いますが、挿絵なしの原作の朗読だけでも、子どもは静かに耳を傾けるでしょう。大人にとっても、原作の日本語は声に出して美しく、読む人の心の中にその人なりの心象風景を鮮やかに描き出す力を秘めています。

この作品は、子狐が「あっ」と叫んで目を押さえながら母狐の前に現れるところから始まります。「母ちゃん、眼に何か刺さった、ぬいて頂戴(ちょうだい)早く早く」。何事かと思うと、それは一面の雪を照らす太陽の反射によって目に痛みを感じたということだとわかります。生まれて初めて雪にふれた子狐の手はかじかんで赤い。母狐はその手を優しく包み、息を吹きかけ温めてやりますが、「かわいい坊やの手に霜焼(しもやけ)ができてはかわいそうだから、夜になったら、町まで行って、(ぼう)やのお手々にあうような毛糸の手袋を買ってやろう」と思います。ただ、実際には、母狐ではなく子狐がお金を持って手袋を買いに行くことに…。

その後のあらすじを述べることは控えますが、私はこの出だしのシーンだけで十二分の力を得ることができました。親子の愛情をテーマとした劇の構想を得るための力を、です。園長になって二年目の冬、私が園児向けの劇の脚本作りに呻吟しているとき、この絵本との出会いから大きなヒントを得たのでした。本園の保護者、特に今年の年長の保護者には答えは明らかでしょう。そうです、私はこの作品に感銘を受けて、「こぎつねのおかいもの」を書いたのでした。

この劇は今年で三回目の上演となりますが、年長児たちは三学期に入ってから、劇の発表という未知への挑戦に胸を躍らせながら、毎日力一杯練習に取り組んでいます。その溌剌とした姿に、新美南吉の描く子狐の怖いもの知らずの凛々しさを見る思いがします。もちろん子どもたちの活躍は親の応援あればこそ。日々の練習を共にし、我が子の取り組みを心から応援する保護者の力強い存在と、子狐を温かく見守り、ここぞと言うとき背中を押す母狐の存在が、私の目には重なって見えます。

ここで少し劇の話をさせて頂くと、こぎつねの兄妹が年に一度の「お買い物祭り」に出かけたとき、そこで何を買って帰るのかがポイントになります。決められたお小遣いの中で、それぞれが自分のほしいものを主張すると争いになります。二人は知恵を出して納得できる買い物をします。ただ、二人の胸の内には自分の本当に欲しかったものが買えなかったという心残りもあります。そこを見透かしたかのように、家で二人の帰りを待っていたお母さんは、「ほしかったものがちゃんと買えましたか」と尋ねます。二人の子は痛いところを突かれて下を向きます。さて、ここからがお楽しみで、最後にどんなハッピーエンドが待ち受けるのでしょうか(これは本番をご覧になってのお楽しみということにさせていただきます)。

実はこのような劇の展開も、『てぶくろをかいに』からヒントを得たものです。新美南吉の子狐は町に手袋を買いに出かけますが。この「買い物」というモチーフでピンと来たのが、本園の文化祭とも言える「お買い物ごっこ」であり、これを劇の中の「お買い物祭り」の設定に生かそうと思いました。毎年この取り組みを見ていると、子どもたちは、一品一品よく見て、買う物を吟味しています。「これは自分用、これはお父さん、お母さんのお土産用、これは弟の分に…」といった具合に。誰もが限られた時間の中で、真剣に品定めしています。私はこの日常の観察を思い浮かべながら、「こぎつねのおかいもの」のあらすじを考えました。

原作では、人間と狐の対立関係が前提になっていて、作品の中で重要な意味を持ちます。そこに込められた寓意については様々な解釈が可能だろうと思います。全体を一読し、どこか爽快な読後感に浸ることの出来ないのは、人間の優しさだけでなくずるさや醜さも随所に暗示されているためだと思われます。それはそれとして、上で見てきた母子の情愛がこの作品を貫く大切なテーマとなっていることは間違いないことであり、少なくともこの絵本を読み終えて私の心に浮かんだ心象風景は、「こぎつねのおかいもの」で表したような世界であった、ということです。

『てぶくろをかいに』は、機会があればぜひ声に出して読んでいただきたい作品です。時代を超えて語り継ぐべき何かが、自分の声に宿るのを実感できるでしょう。大人にとっての読書という意味でも、本作品はお薦めの一冊です。

※引用文は「新美南吉童話集」岩波文庫、岩波書店(1996)によります。

文章/園長先生