4月は片道1時間前後かかっていた通園路ですが、今はほぼ正確に35分です(誤差は1,2分)。自転車の(歩道上の)往来が多い晴天時は1,2分遅く、逆に雨天の場合は1,2分到着が早くなります。4月当初に比べて到着が早くなったのは、ひとえに年少児さんの成長によります。

さて、1キロの道を手をつないで歩く毎日は子どもたちにとって格好のお喋りの場です。ある男の子は恐竜が大好きで図鑑の内容をほとんど空で覚えています。1キロの道をずっと途切れなく恐竜の話をし続けます。彼は出発地点からスタートするので、ほとんどいつも先頭を歩きます。(ちなみに今はスタート時点で3人~5人ほどでのスタートです)。

ただし、話題はいつも同じとはかぎらず、「クイズして」とせがまれたり、「こわいはなししてー」と言われたりもします(ただし、恐竜のクイズしてとか、恐竜の出てくる怖い話をしてーという条件がついたりします)。

さて、昨日はひょんなきっかけで、その子は、数字を1から100まで大きな声で数えながら歩いていました。本人は笑顔で1000まで数えるといっています。様子をうかがっていると、100の次は200にいきなり飛んで、その次が300・・・と100ずつ増え、900、1000!と自信満々言ったので、私はその自信に満ちた態度にすがすがしさを感じました。

その後、信号待ちでちょっと時間にゆとりができたさい、100の次が101になることを身振り手振りで伝えましたが、ご本人は絶対100のつぎは200だと言いはるので、まあいいか(笑)と思って聞き流しました。次の信号待ちでは、図鑑のページで100ページってあるね?と聞いたのですが、彼は間髪入れず、それはなんとかザウルスのページだと胸を張って答えます。じゃあ、その次のページは?と聞くと、またなんとかザウルスのページ!と即答しましたので、「へえ、そうなんだ。じゃあ、家に帰ったら、そのなんとかザウルスのページの数字をみてごらん、101(イチマルイチ)となっていると思うよ」というにとどめました。

この話はこれだけにし、あとは、ご本人がふたたび気分よく1から100,100のつぎに200,300,と数えるに任せました。

歩いているときに、本気で「かず」のことを教えようというのはそもそも安全面からみても邪道ですし、数とたわむれる気持ちを優先したいという思いもあります。

じっさい、私自身、彼が気持ちよく100,200,300、、と数えるのを観ていて、自分も同じだったなあ、と感慨にふけっていたことも事実です。私も幼稚園時代、父に「1000まで数えられる!」と自慢したのはよくても、私の数え方では、100のつぎは110,120,130,140,、、となるのでした。それはちがう、100のつぎは101,102,、、といわれたとき、「へえー、1000までの道のりは途方もなく遠いぞ!」という不安にもにた気持ちになったことをきのうのことのように思い出します。

学校にいけば、そのあたりは先生が一からていねいに教えて下さいます。ひらがなや漢字、または数とのつきあいについては、結局学校に上がってからがスタートです。わたしはそう思っているので、子どもたちの自信に満ちた間違いに対しては、ただ、「すごいね、よく知っているねー」と相づちをうつことにしています。

年長児から預かる俳句にしても、子どもの書いた字は鏡文字であったり、「きもちいい」が「きもちい」だったり、添削したい箇所は山盛りありますし、ときに判読できないこともあります。そんなときは担任に聞き取ってもらいます。

最初が肝心と言うことで、文字や数については、細かいことをあれこれ矯正する人もいると思いますし、それも一つのやり方でしょうが、私は自分の子ども時代をふりかえりながら、何事につけおおらかに見守ることにしています。

蛇足ながら、私は初心者にラテン語を教える機会があるのですが、私は学習者のミスをこよなくリスペクトします。「こんなこともできないのか?」の真逆を行くやりかたです。どんなミスにも「なるほど、そのように考える道もあるのか」と受け取る余地がたくさんあります(実際、ラテン語は言語の性質上、間違いを間違いと言い切れない余白がたくさんあります)。

ラテン語で学習者に恥をかかせるのは教師にとっては赤子の手をひねるより簡単なことです。しかし、その結果この言語を好きになり習熟するかというと、実際はその逆です。だから「ラテン語は難しい」というフレーズが一人歩きします。実際は「ラテン語ほどおもしろい言葉はない」というのがただしい(と私は思っている)のですが。

間違いをただすのは正しい、というのは正論です。しかし、人間は大人も子どもも正論では動きません。子どもは子どもなりに、大人は大人なりに、プライドがあるからです。それを尊重したうえで、ただすところを指摘するのがうまくいくコツだと思っています。

補足すると、私は子どもたちの言い放つたくさんのミスに寛容なのではなく、おおげさにいえば、赤々と燃える子どもたちの学びの魂に敬意を払っているのです。もしミスをミスとして厳密にただしていくとき、その結果、学習に興味を失うか、機械的に手を動かすだけになることをなによりも恐れていると言い換えることが出来ます。

山びこ通信に書きましたが、「質問しない大学生」というのは言葉が表す以上に深刻な問題だと個人的には思っています。

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