新しいことを開拓する人と同様に古いことを学びその意味を問う人もまた世の中に必要だと思います。何かを指さして役に立たないと言う人がいたら、逆に何が役に立つのか尋ねてみても面白いと思います。

本当に役に立つものとは何なのか、それはいつになったらわかるものなのか。面白いものなら目の前にいつもある。役に立つかどうかはわからない。子どもが夢中になって遊んでいる様子をじっと見ているといつもそういうことを思います。そして自分の目の前にも本当は面白いことを経験するチャンスがいっぱい夢のように広がっていることに気付かされるのです。

大人は「有益性」を基準に仕分けするので、面白いものに気づかぬばかりか、無意識のうちにその追求に水を差す側にまわります。このことについては古代ギリシアの時代にも問題視されていたようで、プラトンにも次の表現が見られます。

「…たしかに哲学をしている最もすぐれた人たちでさえ、一般大衆にとっては役にたたぬ人間なのだ、…。ただし、役にたたないことの責めは、役にたてようとしない者たちにこそ問うべきなのであって、優れた人たち自身に問うべきではないのだ、…」(プラトン「国家」489b、田中美知太郎他訳)

ここに出てくる「哲学」は新しい日本語ですが、原文のphilosophiaは「知を愛すること」という意味の古典ギリシア語です(英語のphilosophyの語源)。なぜだろう?なぜかしら?幼児があたりまえのようにもっている好奇心も、いうなれば「知を愛すること」であり、語源に照らせばフィロソフィー、すなわち「哲学」ということになるでしょう。

日本社会全体が細部に至るまで最適化を推し進め、有益性を追求するなら、哲学者と呼べるのは子どもたちだけ、という皮肉な結果になりかねず、その子どもたちも「早期教育」と称して年々「哲学」離れする年齢が早まっていくということになるでしょう。

哲学という日本語はphilosophyの訳語として明治以降用いられるようになりましたが、いまだ生硬な印象がぬぐえません。上で述べたことを単純にして言えば、「役立つことより面白いことをやってみよう」という平凡な言葉に落ち着くのですが、この言葉を聞いてどこか不謹慎な印象をもたれたり、「面白いことをやる」と聞いてゲームで遊んでもよいのかと反論されたりすることが予想されますが、役に立つ面白いものもあるでしょうし、その逆もあるでしょう。

要はバランスの問題です。私たちが今の時代風潮に流されず、自分の基準をしっかり保つにはどのようにバランスをはかればよいのかについて私なりに考えるなら、「役立つことより面白いことをやってみよう」と口にしてちょうどではないかと思う次第です。

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