『論語』の続きです。

「学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや」。

学び、折にふれて復習する。様々な学びが新たに得られる。なんと楽しいことではないか、という意味です(解釈は他にも可能ですが)。

小学校以上の勉強について、人より先に手をつけて知識を得ておく、という価値観に私は懐疑的です。「ひとはひと、自分は自分」ということでいくなら、「誰よりも復習に精を出す」という価値観があってもよいでしょう。

孔子は「復習重視派」でした。

復習を重ねることで、主体的な発見が得られます。学習意欲がわいてきます。ご飯を何度もかむと甘みが感じられるようなものです。

先取り主義はスローガンとして威勢よく聞こえますが、現実は消化不良を招くのが一般です。

ちなみに、復習重視で進めていくと、最初は「先取り派」より一歩も二歩も遅れてついていくように見えますが、自分で納得して前に進む姿勢が身につくので(=納得ゆくまで復習するなら)、じわじわと形勢は逆転します。ここで「うさぎとかめ」の話を思い出してもよいでしょう。

逆転という言葉は順序の競争を連想させますが、様々な意味をこめています。もちろん学校の成績に関しても、復習重視でいくなら必ず成績は伸びます。本当に復習を徹底するなら、試験で困ることはなくなります。

問題は復習の定義とその時間の確保です。先生の代わりができるまで理解できたかと自問してほしいです。数学で言えば、「わからない」と困っている人がいたら、先生の代わりに教えられるかどうか?漢字の書き取りであれば、単に正しく書けるからよい、というのではなく、自分の名前がスラスラかける程度に書けるかどうか?

そこまで復習を繰り返すと自分から先取り学習がしたくなるものです。自分から進んで予習するのは当然の帰結であり、「焦り」からでも、他からの「強制」からでもありません。

要は、学校の勉強についていえば復習を中心にすればすべてうまくまわると言うことです。自分で勉強するとはどういうことか、復習を大事にすると自然に会得できます。この態度が身につけば、どこの大学を目指すにせよ十分です。ただし中学入試の問題はトリッキーなのでこのやりかたは通用しません。特別な学習を進学塾で教えてもらう必要があります。

私が今回述べた復習中心主義は、別名学校の学習中心主義であり、その方針は学年が上がるにつれて有効性を発揮します。

関連記事: