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老子は、「人はこう生きるべし」的なことを述べた孔子を批判したことで知られます。

私は小学3年から『論語』の素読を祖父から受けました。素読というと人によってさまざまなとらえ方があると思いますが、幼稚園でやっている俳句と同じだと思っていただいてさしつかえありません。

祖父が言葉を発し、私が(他の家族と一緒に)声を合わせてそれを繰り返す。これをひたすら繰り返す。

私が中学1年になったとき、祖父は「これからは『老子』をやる」と宣言しました。「『論語』だけではいけない。両方あってはじめてバランスがとれる」とだけ言って。

その後亡くなるまでの3年間、毎週日曜日の朝に『老子』の素読が続きました。当時の印象は「日本語であって日本語でない」というもので、何がいちばん印象に残ったかといえば、子ども相手に手加減しない祖父の真剣な語りでした。ふだんは寡黙でしたが、素読の時間になると饒舌であり、比喩がたくみでもありました。

それが何につながっているかは自分にもよくわかりません。「論語」は別として「老子」は逆説的で難解です。しかし、先日紹介した「大器晩成」や「無用の用」など今でもなるほどと思える言葉はたくさん伝わっています。

古典の言葉は何度も反芻して接するものだということは体験の深い部分でしみこんでいます。耳で聞いた音を文字で読み返すと、なるほどそういうことかと合点できることもたびたびあります。

いま園児たちに俳句の素読をつづけていますが、子どもたちは今は意味がわからなくても、きっと小学校で個々の俳句に文字を通じて出会った時、「あれはこれだったのか!」と合点できると信じます。

そのとき旧友に再会する喜びを味わうに違いなく、そう思えばこそ、これからも本園では俳句の素読を続けていきたいと思っています。

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