故一郎先生の遺稿集をまとめています。『レアの星』と題する文章をご紹介します。

『レアの星』

だれしも死の問題にはあまり触れたがりません。まして、未成熟な幼児に生死の問題と真正面から向き合わせるのは、あまり好ましいこととは思われないようです。

しかし、幼児といえども、いや、幼少期だからこそ、死のもつ厳粛な意味を知ることによって、生を尊重する意識が芽生え、その後の成長にも大きく影響を与えるものと思われます。

 そうした意味で、わたしはある日、幼稚園に付属した「山の学校」ことばの教室(小学一・二年生対象)で、『レアの星』の絵本の読み聞かせを行うことにしました。じつは、この絵本を選ぶに当たって、かつて子どもと「生と死」の問題について、感銘を深くしたある出来事との出会いがあったからです。

いまから三十年以上前の、ある年の秋のお彼岸の頃、お墓参りの帰り道に、母親の身体に子ども二人をロープでしっかり括りつけて、母子三人で奈良の池へ入水心中した事件がありました。この父子家庭の悲劇の報道を、当時、年長児だったYちゃんが、母親といっしょにテレビで視ていたときのことです。

「あのお母さん、なんで死なはったんや?」
「何かつらいことがあって、生きていくのが苦しくなったのと違う?」
「そんなら、二人の子どもは、なんで死んだんや?」
「そりゃ、お母さんが死ぬから、いっしょに死んだんでしょ」
「子どもも、いっしょに死にたかったんか?」
「子どもは死にたくなかったけれど、お母さんが死ぬから子どもを置いておけないし、仕方なかったのね」
「それやったらそのお母さん、おかしいわ。自分が死にたいんやったら、一人で、だまって死ななあかん。子どものこと心配なんやったら、お母さんかて、死んだらあかんわ」
「それじゃあ、もしも、うちもお父さんがいなくて、貧乏に貧乏になって、どうしても生きていかれへんし、お母さん死ぬ言うたら、Yちゃんどうする?」
「ぼくやったら、やめといて言うて、お母さんの足もって放さんように、一生懸命引っ張るわ」
「それでも、死ぬ言うたら?」
「それはハクジョウや。ぼく、警察の人にきてもろて、お母さん死なさんように守ってもらうわ」
「……」
「ぼくらな、貧乏になったかて、家の人がみんな一緒やったら、何ともあらへん。ぜったいに死んだらあかん。ぜったいにやで。いのち、粗末にしたら神さん怒ってバチ当てはる」

まさに、五歳の幼児のすさまじいばかりの生への思いであります。

いのちの尊厳を切々と訴えるYちゃんの言葉のひと言ひと言は、三十年以上たった今もなおわたしの脳裏に焼きついて離れないでいました。

そうしたとき、たまたま店頭で出会ったのが、パトリック・ジルソンの『レアの星』の絵本でした。ふつう、動物や植物に姿を借りて、子供たちに生と死の問題を語りかける絵本は多く見られます。『わすれられないおくりもの』や『葉っぱのフレデイ』などは、中でも名作として知られていますが、この『レアの星』は、視点をごく身近な友だちの死に置いているところに、それらとは一線を画しています。

小児がんにかかった女の子レアと、同級生の男の子ロビンの二人は、残されたわずかな時間のなかで、あたたかな友情を育んでいきます。

ある夜のことでした。レアが、無数にきらめく夜空の星を眺めながら、

「ずっと星を見てるとね、星はひとつずつみんな違うの。大きさも、色も。わたしは、あの青くて小さい星が好き。なんて名前かしら?」
「あの星はね、だれかが名前をつけてくれるのを、待っているんだ。レアみたいに、どんな星よりも可愛いあの星は、だれの星でもない、『レアの星』だよ」

ロビンはそういって、確実に死の近づいていることを自覚しているレアに希望を与えながら励まします。

やがて、夜空に輝く星となったレアの死を通して、もしも、本当に自分の大好きな友だちが重い病気にかかったら、そしてそれが元で、永遠に別れなければならなくなったら。そればかりか、もっと身近な自分の家族の誰かに、もしものことが起こったら。

こうした、きわめて身近なテーマの『レアの星』を読み終わったあと、子どもたちはいつになく神妙に、しばらくは、子どもたちの間を静かな時が流れていました。

やがて、ぽつりぽつりと子どもたちが感想を漏らし始めました。

「レアはかわいそうやけど、ほんまは幸せなんや」
「そうや、お星さまになって、天国いけたんやもん」
「ロビンちゃんと、さいごまで仲良しでいられて、良かったね」
「ぼくのおばあちゃん、九二歳で死なはったけど、お星さんになってはるやろか?」
「そら、生きている間にええことしてたら、天国いけるんやし、お星さんにかてなれるんとちがう?」
「虫かて、花かて、殺したり、千切ったりしたら、いのち取ることになるし、悪いことや」
「そうや。そんなことする人は、お星さんになれへんわ」
「ぼくなあ、お星さんになれたかて、レアちゃんみたいに早よう死ぬのはいやや。ぜったい長生きしたいわ」
「そう言うたかて、神さんが決めはることやし、どうにもならんわ」

ざっとこんな会話が交わされていました。そこでわたしは、
「そうね。百歳まで生きられるお年寄りもいるし、たった十歳で死ぬ子どももいる。人のいのちは誰も自分で決めることは出来ないね。でも、どんな人にでもできることは、生きている間、いのちの長い人は長い間、短い人は短い間、その一日一日のいのちを大事に一生懸命生きていくことだね。お勉強だって、大人になってからのお仕事だって、何でも、しぶしぶ、いやいや、だらだらしながら生きていても、死ぬときにはきっと悔いが残って、お星さまにはなれないよね。

それから、お父さん、お母さん、きょうだい、お友だち、そういう周りにいる人たちと、こころを込めて、ありがとうの感謝の気持ちを持って、ひとりひとりと大切にすごしていく。これも大事なことだね。そうしたことが、さっき、お友だちの言っていた『ええことしてたら、天国いけるし、お星さまにもなれる』ということになるんだろうね」

Yちゃんは必死になって死を拒みました。ロビンは、しずかに死を肯定し、励ましを与えています。まるで死に対する正反対の対応のようですが、いずれも子どもの感性に基づく純粋な死生観です。

この日の読み聞かせは、死とはなにか、生きるとはなにか、真の幸せとはなにか、死の問題と向き合った子どもたちにとって、忘れえぬ感動であったようです。

幼少期に受けた感動が、いつまでもこころのどこかに残っていて、なにかの弾みに思い起こされ、これからの人生の折々の生きる支えとなったり、判断の道しるべとなってくれるような、そのような本や絵本の選択に今後も努めたいと思っています。

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