この道50年──第3章 後ろ向き歩きのきっかけ

私が「後ろ向き歩き」を始めたのは、五〇年前に逆上ります。ということは、創立当初からというわけです。当時は、幼稚園の男の先生というのも異色の存在でしたが、後ろ向き歩きというのも随分変わった目で見られていました。今でこそ、このスタイルも、「後ろ向き歩きは健康にいいそうだ。」などと、少しは市民権を得るようになって好奇の目も薄らいできましたが、最初の頃は、なかなかそうはいきませんでした。もちろん、敢えて人の目を引こうなどというつもりは全くなく、わたしとしては、子どものこころを知るための手段として後ろ向き歩きを始めたのですが、それを始めるについては、多少の事情があったのです。

その事情というのをお話する前に、なぜわたしどもの園で、歩いての送り迎えが始まったのかについて、触れておかねばなりません。おおよそ、別稿「保父誕生」に見られるような経緯をたどって、北白川幼稚園は誕生したのですが、いま思い返しますと、初めの頃はすべてが手さぐりの連続でした。何しろ私の家では、それまで幼稚園というものとは全く縁がなく、私自身、幼稚園へ通った経験がありません。幼稚園に関しては、イロハのイの字も知らない状態からスタートを起こしたのですから、無謀もいい所だったといえましょう。

母がツテを頼って、京都市内の二つの幼稚園に何度も何度も見学に寄せていただき、そのつど稚拙(ちせつ)と笑われるのを覚悟で、体当たりの質問を浴びせては、向こうの先生から、「ご熱心ですね。私達はついついマンネリになっておりますので、そういう新鮮な質問を受けますと、とてもいい刺激になってピリッと緊張します」とお褒めに預かったとのことですが、母にとっては短時日のあいだに幼稚園なるものの基本的な知識や本質を吸収しようと、死に物狂いでぶつかっていたのです。

一日の時間配分や行事の持ち方など、そのほか慣れてしまえば何でもない些細なことまでが、すべて吸収の材料だったのです。日々、母からの報告を聞いている内に、それぞれの幼稚園には根本的な違いがあることに、やがて父は気付きました。ある幼稚園はキリスト教系の幼稚園、もう一つの幼稚園は仏教系の幼稚園。宗教的背景の違いによって、日常の保育内容や行事の持ち方まで、根本的に違っている。園児の送り迎えにしても、保護者が門前までの徒歩送迎の園もあれば、戦後間もないのに、すでにスクールバスによる送迎を行っている園もある。一事が万事、こうでなければならないという決まりはなく、園独自の個性によって運営されているようだ。だんだんと様子がつかめてくる内に、父の心にもようやくゆとりのようなものが、芽生えてきました。「よし、うちなりのオリジナル性を、発揮していいんだ」

そこで、父がまず第一に考えましたことは、園児の通園方法をどのようにするかということでした。それには先ず、地元の方達の多大の善意によって創設されたことに対する感謝の意を、何らかの形で表したい。と同時に、いたいけない幼児がこんな山の上まで毎日通って来てくれるということは、考えて見れば容易なことではない。また、保護者の皆さんも、何かと不便を承知で寄越して下さる。有り難いことではないか。それを、山の上で拱手傍観(きょうしゅぼうかん)、座して子どもを待つ、というのでは何とも申し訳ない。感謝の気持ちと、一軒一軒のご家庭との触れ合いを、園児を歩いて送り迎えするという形の中に生かそうではないか。

こうした考えに基づいて、こちらから、子どもの家へ、あるいはその近くまでお迎えに行き、かつ送って行くというスタイルを取ることになりました。ですから、現在のように、心と身体を強くするために送り迎えを行うように、その意義と目的が変化していったのは、かなり後のことであります。(別項「歩くことのたのしさ」参照)

さて、昭和二十五年四月一〇日、創立の年の第一回入園式を何とか滞りなくすませて、その翌日から、いよいよ送り迎えが始まりました。父も、母も、わたしも、今で言うボランティアの宮下さんも、さる人の紹介で手伝いに来てくれた谷さんというお嬢さんも、それぞれ個別にグループを受け持ったのですが、こと送り迎えに関しては、みな全く初めての経験です。今のように、うちの園での送り迎えのパターンが定着しているわけでもなく、他に送り迎えについてのマニュアルがあるわけでもありません。

でもこの界隈は、今日のようにクルマの往来もほとんどありませんし、子どもを連れて来るぐらいは、さほど難しいことでもなかろうと、わたし達は比較的軽い気持ちでお迎えの第一歩を踏み出したのです。わたしは七人の子どものグループを持たされました。気楽にとはいっても、やはり第一日目です。いささかの緊張を伴って、最初の子どもの家の前に立ちました。忘れもしません。白川通り(当時は十二間道路といっていました)の現在の「五衛門」と「ん」の間の道を西へ入って南側二軒目が、送り迎え五〇年の最初の園児昭子ちゃん(仮名)の家でした。幸い昭子ちゃんは、おしゃまで気さくな子どもでした。手をつないで歩き始めましたが、むしろよく話しかけてきたのは、昭子ちゃんの方でした。

そんなわけで、まず最初の子どもが昭子ちゃんであったお陰で、わたしはリラックスした気持ちで送り迎えのスタートを切ることができました。つぎの家も、女の子でした。さらにつぎも女の子と続きました。この最初三人、女の子が偶然続いたということが、私を五〇年間後ろ向きに歩かせるきっかけを作ろうとは、思いも寄らないことでした。わたしは、昭子ちゃんを右手に、つぎの家の里恵ちゃんを左手につないで、三番目の友子ちゃんを誘いに寄りました。(いずれも仮名)友子ちゃんに、家の前でお見送りのお母さんへ、「いってまいります」 のご挨拶を促してから、三人を連れて歩き始めたのですが、通りが少し斜めに折れて、友子ちゃんのお母さんが見えなくなったときです。

急に、 「キャーッ」 という悲鳴のような声がして、ふと見ると友子ちゃんが里恵ちゃんの髪の毛をきつく引っ張ったらしく、里恵ちゃんはわたしの左手を思わず離して、顔をしかめながら頭を押さえています。それは一瞬の出来事でした。さらに友子ちゃんは、「わたしや!」 と、強く言い放つと、里恵ちゃんの離したわたしの左手をもぎ取るようにしてつないできました。その瞬間、「痛いやんか!」 手の甲を押さえながら怒りを含んだ声を上げたのは、友子ちゃんの方でした。見た目にはおとなしそうな里恵ちゃんが、友子ちゃんの手の甲を思い切りつねって逆襲に出たのです。

ひるんだ友子ちゃんがわたしの左手を放した隙に、里恵ちゃんがふたたび空いた手をつなぎにきました。家も比較的近い友子ちゃんと里恵ちゃんが、どうやら以前から知り合っている仲らしいことは、おたがいの表情や口の聞き方からも察せられました。初対面の昭子ちゃんのつないでいる右手はそのままにしておいて、顔見知りの里恵ちゃんのつなぐ左手を取り合う結果となったようです。子どもを迎え始めて一〇分も経たないうちに、わたしは早くも、大きな壁にぶっつかってしまいました。幼児ながら女の子同志の壮絶な争いを目の当たりにして、こんな場合、咄嗟の処置をどう取っていいのか見当もつかず、わたしはただ呆然としているだけでした。

「それにしても、手をつなぐぐらいのことで、なぜ、このような争いが生じたのだろう。なぜ争わせてしまったのだろう。それよりもこれから先を、どうすればよいのだろう。」わたしは焦りました。いやが応でも解決策を瞬間的に見出さねばなりません。そのとき、わたしの脳裏に誠に単純な算数が閃きました。「最初の二人を両手につないできたとき、わたしの手は二本。つなぐ子どもは二人。二と二で、ここまでは数は合っている。ところが三人目からは二本の手と三人の子ども。一人は完全にあぶれることになる。さらに先へ進めば、二本の手に七人の子ども。七人の子どもを平等につなぐことは不可能だ。あぶれる子どもはつぎつぎに増え、残る五人の子どものすべてに不満を与えるのは、自明の理である。幼児にもできるこんな簡単な計算、なぜ、最初から気がつかなかったのだろう。」

わたしは取り敢えず、今つないでいる二人の手を振りほどくことにしました。「三人とも、ごめんね。これからまだお友達も増えるのに、ぼくは、ぜんぶのお友達とつなぐわけにいかんから、ここからは、ぼくの手なしで、お友達同志で手をつないで歩いてね」これが、そのときの精一杯の解決策だったのです。成り立てほやほやで、照れくさくて先生という言葉が使えず、思わず「ぼく」と言っていたわたしでした。

三人は、多少不承不承ではあったのでしょうが、それでも、 「ごめんね」 と言われたことで少しは気持ちを和らげたものとみえ、昭子ちゃんを中にして、友子ちゃんと里恵ちゃんは三人手をつないで、無事、歩き始めました。あとから来る四人は、二人ずつ手をつないで何事もなかったように三人のあとに続きました。その夜わたしは、なかなか寝つかれないでいました。余りにも昼間の衝撃が大きかったからです。

友子ちゃんと里恵ちゃんの、幼児とは思えぬ凄まじいかっとう葛藤と、そのときの二人の形相がクローズアップされて、わたしは、暗闇の中で思わず深く息をのみました。しかし、少し冷静になって考えてみますと、本当は今日の出来事を通して、何事も前もっての心準備がなければ、ささい些細なことから大きなぼけつ墓穴を掘るものであることを、二人の子どもはいみじくも教えてくれたのではないか、むしろわたしは、二人に感謝しなければならないのではないか、そう思うようになっていました。

それともう一つ、今日の出来事には、単に二本の手と三人の子どもとの数の過不足だけでは割り切れないものが、あったのではなかろうか。これが女の子三人の場合と、かりに男の子三人の場合とでは、また展開がかなり違っていたのではなかったろうか、そうしたことも考えさせられたことでした。「気楽に考えていた送り迎えが、こんなに大変なものとは思っても見なかった。配慮しなければならぬことは山ほどある。もう一度基本から考え直さなければならない。」そう思ったわたしは、つぎの日から思いを新たにして、送り迎えと真剣に取り組むことにしました。

そこでまず、つぎの日からは、最初の昭子ちゃんとも手をつながないことにしました。二人は並んで前向きに歩きました。つぎの里恵ちゃんともわたしはつながず、昭子ちゃんと里恵ちゃんの二人に手をつながせました。わたし達三人は、横並びにやはり前向きで歩きました。友子ちゃんの家の前まできたとき、友子ちゃんはわたし達三人の様子を一目見て、わたしが何も言わないのに、すっと里惠ちゃんのところへ手をつなぎにいきました。二人は本当はさほど仲は悪くないのに、なにかことがあるとライバル意識を燃やすのかもしれません。

わたしは、昨日とはまるで違って、ごく平静な気持ちでうしろから付いてくる三人の前に立ち、前方を向きながらつぎの子どもの家へと向かっていました。その時です。わたしは何だかとても物足りなさを覚えたのです。子ども達の前に立ち、前向きで歩いていては、子どもの顔が見えない。表情が読めない。子ども達のおしゃべりの声は、後ろから聞こえてくるだけです。後ろでは、昨日はあれほど憎しみ合っていた、あの友子ちゃんと里恵ちゃんが、なにか親しげに話合っている。これはいったい、どういう事なのだろう?

子どものことをもっと知りたい。知らなければならない。 前向きでは、二人のこころの表情は読み取れない。背中に眼はない。眼を子どもに向けるためには、わたしは子どもと向かい合わねばならない。そう思ったわたしは、思い切って身体ごとくるりと後ろを向きました。三人はびっくりして一瞬声を収めました。わたしがにっこり微笑みながら、後ろ向きで歩き始めますと、「その方がええわ。お顔が見えるし」と友子ちゃんが笑い返してくれました。

良く見ますと、手の取りあいで見せていた気の強い友子ちゃんの顔に何とも言えない人懐っこさと優しさが滲んでいます。それは、前向きではうかが窺うことのできない、友子ちゃんの生まの表情でした。さいごの七人目の子どもを迎えた時も、もちろん、わたしは後ろ向き歩きのままでした。昨日は二人のことで頭が一杯で、あとの四人とはほとんど関わりを持つ余裕がなかったので、できるだけ四人の子どもに声掛けをするようにしました。

「後からついておいで」 では、友子ちゃんの優しさにも気がつかず、四人の子どもとの話合いも出来ないでいたでしょう。「よしよし、これからは後ろ向き歩きに限る」わたしはひとりうなず頷きながら、とても大きな発見をしたような気がしました。元はといえば、「友子ちゃんと里恵ちゃんとが、しれつ熾烈な手の取りあいを展開しなければ、送り迎えについても真剣に取り組もうとはしなかったかも知れないし、その結果、子どものこころにより近づこうとする、積極的な後ろ向き歩きの発想も思い浮かばなかったかも知れない。」

そう思いますと、五〇年にわたる後ろ向き歩きのルーツは、この二人の女の子の手の取り合いに端を発していたのではなかろうか。往時を懐かしみつつ、ふとそう思ったことでした。

>>第4章

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