勝負に挑む心

保護者会の後半では、本園の取り組みについてお話をさせていただきました。

3年前の保護者会でお話しした内容と重なる部分がありますので、そのときの原稿をご紹介します。

>>英才教育について

その原稿に載せきれなかった続きの内容は下記の通りです。

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この日、年長児は「棒引き遊び」をしたようです(日誌による)。後で先生に伺うと、「棒」は危なくないように新聞紙を材料にして作った特製の棒なのだそうです。その日の様子は、先生に実況中継して頂きましょう。

「・・・男女に分かれて行いましたが、女の子はどのペアーもとてもよい勝負で、男の子に比べて長い間、棒を引き合う様子が見られました。また、男の子は特に応援するとき、元気な声で「がんばれー!」、「まけるなー!」と言ったり、大きな拍手を送ったりしました。勝負がつく遊びなので、負けてしまい悔しい思いをした子も中にはいます。中でもAちゃんとBちゃんは終わった後に泣いてしまいました。しかし、そのときに、Cちゃんが「負けても大丈夫やで。今日だけじゃないし、また次もできるで」と声をかけてくれて、その様子を見た子どもたちが入れ替わりで頭をなでてあげたり、温かい言葉をたくさんかけてあげていて、とても嬉しく思いました。Cちゃんは以前おすもうをしたときに悔しい思いをしているので、その気持ちが痛いほどよくわかったのだと思います。最後の最後まで声をかけ続けてあげていました。・・・」

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昨日は、はからずも子どもたち同士、キャッチボールをしてその回数を数えたり、フープで遊びながら、自由にポーズを決めたり、それぞれのクラスでちょっとした運動遊びに取り組みました。

私が鉄棒指導をするとき、サーキット走りをさせることがあります。園庭に鉄棒を並べ、それをくぐって走り抜けてから、灯籠横の石段を降り、ことりぐみの前の道をかけぬけ、再び石段をかけあがり園庭へ。こういう指導をするとき、ここ数年の傾向として、「これは競争と違うんやな」と確認する子がいます。背景にどういう心理があるのかと興味をもっておりました。

そんなおり、今朝年長の男の子が「運動会は嫌やな。リレーせなあかんし」と私に言いました。その子は続けて「なあ園長先生。勝ち負けをつけへんといてくれへんか」と。周りの子どもたちも手をつないで歩きながら、ちょっとした「大人の会話」を黙って聞いています。私は間を置いてから、「そやな。たとえば手をつないで走ったら勝ち負けつかへんな。でも運動会にならへんな。」と言うと「ほんまや」と同意してくれたので、私はさらに続けて、勝ち負けについて私の考えを語りました。要約すると、勝って偉そうにするのは駄目、負けて嫌な顔をするのも駄目(勝って奢らず負けてくさらず)ということです。たまたまテニスの好きな男のだったので、このたびウィンブルドンの決勝でフェデラーが死闘を制した話をし、勝ち負けがあるからがんばれるということを言い添えました。

蛇足ながら、勝ち負けのあるスポーツについて常々思うことは、優勝する以外全員「負ける」わけで、優勝した人も永遠に勝ち続けることはないということです。つまり、およそ「選手」と呼ばれる人なら、どんな大選手であろうと(フェデラーも含め)100パーセント「敗北」を経験します。それがスポーツです。

逆に「敗北」や「負け」を経験しないですむには、何らかの仕方で自分より「弱い」相手ばかりを選ぶか、試合に参加しなければよいわけでしょう。幼稚園児に負けたくなければ、小学生の高学年になってから幼稚園児相手にかけっこの「勝負」を挑めば、まず勝てるでしょう。

ただ、それでよいのか、君は?それで満足できるのか、君は?と自分で自分の胸に問うことが、スポーツの意味、スポーツのすばらしさを考える上で大事な問いになるだろうと思います。

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言うまでもなく子どもは大切なものです。万葉集にも、「銀も金も玉も何せむに、優れる宝子にしかめやも」とあります。しかし、大切だからといって、銀や金のように金庫にしまいこむのはおかしいわけです。

むしろ、「かぐやひめ」の話が示唆するように、いつか子どもは自立し、自分のもとを離れる日がくる、という覚悟でつきあう必要があると思います。自分の所有物であれば、子どもの自立はネガティブなことです。自分の所有物ではないと思えば、自立はポジティブなこととみなせます。この点、血のつながりのない私たち幼稚園の人間は、純粋に子どもたちの自立のお手伝いに専念できます。

ところで、幼稚園や保育園の先生を目指す人の中に、「子どもがかわいいから」という理由でこの道を志す人がいると思います。それは自然なことです。しかし、上で述べた自立のお手伝い、という観点から見ると、その感情はネガティブに働くと私は考えています。

子どもは目の前の大人が甘い人か、そうでないか、よくわかっています。子どもをかわいいと思っている人には、どこまでも甘えます。そして、言うことを聞きません。叱らないといけない場面でも、その人の言葉や表情にどこかスキがあり、子どもにはそれが見えています。その結果、ここぞというときに叱ることができないままです。

例をあげましょう。子どもは大人がちょっとかがむと、背中に乗ろうとします。子どもをかわいいと思っている大人の場合、子どもを背中に乗せて平気です。それは幼稚園、保育園の一風景としてよく見られるものでしょう。この場合、「ぼくも、わたしも」とその先生の周りにはキャーキャーと取り巻きの子どもたちが集まるでしょう。先生として悪い気はしません。しかし、私は幼児教育は、子どもを「かわいがること」(=自分のかわいいと思う感情を満たすこと)ではない、と考えています。

また、子どもはたいへん観察力が強く、ジェラシーの感情も持ち合わせていますので、特定の子どもに対し、おんぶやだっこをすることはご法度です。小学校以上の教育現場でも、子どもたちがもっとも嫌うことのひとつは、先生のえこひいきです。幼稚園が例外とは思えません。幼稚園のおんぶやだっこはそれとは違う、大切なスキンシップだ、等の反論も可能ですが、私は上で述べたように、メリットよりデメリットが大きいと考えています。

それでも、子どもが甘えて「だっこして」と言うときにどうするか。「だめ!」というのか、どうするのか。これは技術の問題です。私なら、子どもを抱え、だっこするため持ち上げようと試みます。しかし、重すぎて持ち上げることができない、というストーリーにします。つまり、「おにいさん(おねえさん)になったので重くて持ち上げられない」という理由です。

このやりとりを周囲の子どもたちは意外に注目しています。このストーリ展開に、不満を言われたためしは一度もありません。ここから何がわかるのか?子どもたちは、「お兄さん、お姉さんになるために幼稚園に通っている」という自負をもっているという事実です。この気持ちを尊重するのが教育者としての務めです。

では、このように子どもにとって「甘くない」先生は「怖い」先生なのでしょうか。子どもに嫌われるのでしょうか。私たち幼稚園の人間は、子どもに好かれるために仕事をしているのではありません。子どもの「自立」を応援するために仕事をしています。

したがって、時には励まし、時には叱る必要があります。いかに心に響く言葉を発するか、いつもそれを考えないといけません。そういう私たちは、時に厳しい先生かもしれません。しかし、子どもたちの訴えに耳を傾け、親身に相談に乗る私たちは、「優しい」先生かもしれません。私たち大人ならだれもがご存知のように、このように「厳しさ」と「優しさ」は両立するものです。少なくとも、私はそう考えます。

しかし、私も子どもを抱っこすることがあります。それは言うなれば非常時です。送迎の道中で子どもの体調が悪くなったとき、石段を走って登ったこともあります(トイレのため・・・)。あるいは心の面で、保護者とスムーズに別れにくい一時期、私はある意味無理をして子どもを抱っこして、いったん親から引き離します。泣きじゃくる子どもは私に悪態をつくこともあれば、「ママがいい(号泣)」を連呼することもあります。

さすがに子どもは軽いのでなんとかなります。この場合の抱っこは、いわば、子どもの行動の自由を奪う非常手段でもあります。抱っこして道を歩きながら、私は子どもの耳元で「先生は○○ちゃんと幼稚園にいきたいな」(その他、さまざまな励ましの言葉のバリエーション)を繰り返します(一方では耳元で何度も「ようちえんにいきたくない!」といわれ続けながら(笑)。

さて、子どもは泣くだけ泣いたら、必ず自分で歩こうとします(泣き別れした子の残像が残る親御さんはこの展開を想像できないと思いますので、園についてから家にお電話することもあります)。

今まで、グループのスタートからゴールまでずっと抱っこし続けたケースはゼロです。泣くだけ泣いて、言いたいことを言い続けた子は、意外にケロッとします。こんなやりとりは、年少児一学期の風物詩といえるものです。時折思い出したように、秋以降も、あるいは年中になってからも、私の「抱っこ」が必要なケースもありますが、それは一時的なものです。卒園まぎわまでそれが必要になる例は皆無です(当然ですが)。

だから、私たちは、年少の最初にどれだけ泣いてわめこうと、ちょうど大雨に見舞われても「やまない雨はない」と達観できるように、それが永遠に続かないことを知っています。だから、心では余裕をもって子どもを抱きかかえ、なだめながら送迎の道を行き来できるのです。心では「がんばれ、がんばれ」と応援をしながら。

この応援は個人に当てたものですが、送迎の道中は、当然ながら他の子どもたちがたくさんいてこの「抱っこ」をしっかり見ています。彼らはそれを「えこひいき」とみているのではありません。むしろ、その子を心の中で応援しています。そして、ひとしきり泣いたたその子が歩道に降ろされ、自分で歩けるようになったとき、「よかったね」と自分の弟妹のことのように安堵します(顔にそう書いてあります)。

先日、ある年長児が言いました。「ぼくもちいさいぐみのとき、○○ちゃんとおなじやった」と。そのとおり。私は今もその子の泣きじゃくる姿を昨日のことのように思い出します。私が「ちいさいぐみのとき、だれと手をつないでもらってたかな?」と尋ねますと、こちらが想像する以上に、当時のことをよく覚えています。

「そやしな、ぼく、いま○○ちゃんとてをつないであげるねん」。

幼稚園の仕事をしていてよかった、と思える瞬間です(^^)。

自分が日ごろ何気なく考えたり、やっていることを夏休みは振り返ることができます。自分がいつも何をしているんだろう?と考えながら書いたので、とりとめなく長くなり失礼しました。

(2013年1月23日)

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