素敵な子どもたち――Ikuko Diary より
しとしと降り続けた雨が上がり、お庭に子どもたちの声が聞こえてきたのは11時過ぎ。
本日午前中は、園内交通安全教室を行いました。各送り迎えコース(第1グループ~第6グループ)に分かれ、登降園の通路を歩く上でのお約束や注意事項を、送り迎え担当の先生とともに確認する日でした。今日のお帰りでは、早速先生と学んだことを実践できたのではないでしょうか。
朝、園で子どもたちをお迎えしていると、大変微笑ましく、またいつも感心することがあります。
各グループ出発地点から、年中、年長児は3才児の手を引いて一般歩道を二人一組で列になって歩き、そのままお山を登って、3才児クラスの玄関までをしっかり送り届けてあげます。
玄関に到着すると、3才児はくるりと向きを変え、「送ってくれてありがとう!」とお兄さんお姉さんの目を見てしっかり手を振って言います。
それを受けた年中、年長児は、少々照れながらもとても満足げな笑顔を返しています。お礼を言ってもらえたから嬉しいというだけではなく、自分より小さい子をずっと誘導し、最後まで連れて行って無事を確かめられた、という社会的責任を果たした達成感がベースにある笑顔なので本当に凛々しく思いやりを感じます。
つい先日は、年少の男の子Kくんがあまりに立派に「○○くんありがとうー」と言ったのを受けて、思わず年長の男の子Sくんは、被っていたキャップ帽を片手で素早く取り、「どういたしまして」と今度は会釈をしながら立派な姿でお返ししたのでした。
その仕草を見て、思わずカッコイイ!と感じた3才児のKくんは、同じように自分のキャップ帽を外して「ありがとうございました」とまたお返しをしていました。
そうしながらも、「なんで帽子を取るの?」と疑問に思って尋ねるKくんに、年長児のSくんは、「男の子が挨拶するときには帽子を外して挨拶するんだよ。帽子を取るときはこの辺を持って、さっと外して頭を下げるんだよ」と丁寧に教えてあげています。
一緒にいた私が、どうしてそんなによく知ってるの?と感心して尋ねると、お父さんに教えてもらったということでした。
そしてふと横を見ると、すでにクラスに到着していた3才児の他の男の子も、お部屋から自分の帽子を頭に被りながら出てきて、同じように帽子を外してご挨拶をする“格好いい挨拶”の練習をしている何とも微笑ましい光景がありました。
雨の日も晴れの日も、優しいお兄さんお姉さんと手をつなぎ、先生と一緒に自然の移りかわりを体感しながら歩く経験は、簡単なようで実は大変なことです。毎日歩くことは単に体が丈夫になるから、というだけではなく、感謝や忍耐や達成感など目には見えない大事なものが心身に刻まれていきます。みんなと一緒だから毎日できることかも知れません。
暑い夏日や、レインコートを着るのも嫌になるずぶ濡れの日もあります。朝、クラスでレインコートを脱ぐ補助をしながらタオルで拭いていると汗びっしょりの日もありますが、子どもたちが不平を言うことは不思議とありません。それよりも、ようやく園に着いた喜びやお友達の笑顔を見て嬉しくなる方が先なので、子どもたちは本当に立派だなと思います。
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2011年5月30日 | コメント/トラックバック(1) |
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が・ま・ん──園長日記より
2009-10-15 (木)
朝の登園か、お帰りの降園か、どちらが神経を使うかというと前者です。家を出るときの心身のコンディションは毎日違うので、昨日笑っていた子が今日は涙を見せたり、さまざまです。
今朝はお山の上に着いてから男の子と一対一で「がまん」の約束をしました。何が何でも一番前で歩きたいという気持ちが高じて涙を見せ、太陽がまぶしい、暑いからと言って涙を見せ、・・・最後には自分でも何が何だかわからずに涙を見せ・・・。
そのままなだめて部屋に入っても、いずれ気は紛れるのでしょう。しかし、いつも気を紛らせるやり方ばかりではいけません。
しんどくても芋掘りはあんなにがんばったじゃないか、と励ました上、少々つらいことがあっても、自分の思い通りにならないことがあっても、「お兄さんぐみさんは、がまんすることが大事だ」という話をしました。
日頃、「ギューして」(強く握手すること)を求め、「ぜんぜんいたくない」と自慢げに言う男の子なので、話のあとで、いつものようにギューと握りしめ、何度か「がまん」の練習をするうち笑顔に戻り、二人で手をつないで部屋まで行きました。
途中、わざと転んで痛そうにしながら、「こういうときでも?」と聞くと、「がまん!」と言うので、部屋の前でもう一度ギューと握って「がまん」(笑)と二人で声をあわせて言い合ってから別れました。
目の見えない部分で、いろいろ乗り越えないと行けない課題がそれぞれの子どものまえに訪れては消え・・・の繰り返しです。
それをうまく言葉に表せないゆえに流れる涙もあるでしょう。
そうしたことを全部包んだ上で、「それでも前を向いてがんばろう!」というメッセージはこどもたちにとっても、大人の私たちにとっても大切だと思うのです。
<追記>
主人公は「男はな」のKちゃんです。
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2011年5月29日 | コメント/トラックバック(0) |
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子どもたちを育てる「場」──園長だより
“いしだんを 毎日のぼり 元気です”(園児の句)
5月に入り、園児たちは自信をもって山道を登ってくるようになりました。手をつないで緑のまぶしい山道を元気に登ってくる子どもたちの姿は、4月当初とはまったく別のものです。4月は、新しいクラス、お友達に慣れることが第一の目標でしたが、連休明けの今日からは、朝の体操や俳句が始まり、外遊びの時間も増えていきます。クラス全体のまとまりも密になり、子どもたちはその「場」に属する楽しさを発見し、それを表現する機会も増えていきます。
この「場」の楽しさこそ、子どもたちが責任ある社会の一員として成長するための栄養だと思われます。それは「楽しさ」であっても「楽(らく)」ということではありません。石段が大人の目にとって「苦しい」ものに見えても、子どもたちは手をつないで登ることで「楽しさ」を感じ取ります。幼稚園が楽しい場であるために、ときに大人の目にとって「苦しくつらい」要素が見えたとしても、子どもたちはクラスの一員としてそれを乗り越え、階段を一歩ずつ登っていくことができると思います。
古来「かわいい子には旅をさせよ」と申しますが、「かわいい子ゆえ旅をさせたくない」というのが親心でもあります。しかし、「旅」を「苦しさ」と置き換えますと、人間の成長にとって「苦しさを乗り越えての楽しさ」がいかに大切であるかに思いがいたります。しかし、その苦しみはけっして一人だけのものではなく、個々の人間の成長(=旅)をみなで見つめ合い、支え合い、励まし合う「場」として幼稚園がある、ということに気づきます。
先に「クラスのまとまり」という言い方をしましたが、それは個人の側から見れば、個性が薄れていく方向を意味するのではありません。自分の肯定できる社会に所属する安心感や個人間の信頼、連帯感に満ちたクラスができあがっていく、という意味です。同じように「家庭のまとまり、絆」という言い方もできるように思われます。家庭にせよクラスにせよ、自分を包みこむ社会の絆を肌で感じ取るとき、子どもたちは力一杯自分の力を発揮していくものです。
かりに子どもが「幼稚園に行きたくない、○○ちゃんがいるから。」と言ったとしても、その本当の意味は「自分は今、幼稚園で○○ちゃんとよりよい人間関係を築く苦労(努力)をしている」と理解すべきケースが多々あります。その苦労が将来の成長にとって問題か問題でないか?その見極めを行うのがプロとしての務めであり、必要とあらば、その判断について保護者にお伝えし、あるいはご家庭での様子をお尋ねすることで、その判断の正確さを期する必要もございます。
幼稚園においては、個々のお子さんを見守るのは担任の仕事となりますが、一方には送り迎えの先生の目、外遊びの先生の目といったものもあります。放課後を中心に、それぞれのお子さんの「よりよい人間関係を築く努力」について複数の目で評価し、情報交換しているところです。
園児の登園する山道は厳しく見えても、けっして危険なものではありません。幼稚園という「場」も子どもたちにとって「安楽」なものからのみ成り立つのではなく、ときに涙の出るような「困難」や「試練」も待ち構えているでしょう。そこで働く原理は手をつないで山道を登るのと同じで、大人が安易に手を出して介入してはいけない場面、ただ励まし、見守るほかないという場面が園には多々あります。ただし、それが教育的に意味を持つためには、園としては何より「公正さの原理」を常に維持しなければなりませんし、「試練」が「危害」とならぬよう注意深く見守らなければなりません。
このようなことを心に誓いつつ、お子さんが責任ある人間として成長する「場」としての幼稚園を守り育てていきたい、と思う次第です。その結果、冒頭に掲げた句のように、“いしだんを 毎日のぼり 元気です”と言っていただければ最高ですね。
(2003年5月6日)
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2011年5月28日 | コメント/トラックバック(1) |
カテゴリー:園長だより
リフレッシュ──園長日記より
このところ晴れが続き、園児は外遊びの時間をおおいに楽しんでいます。その分、目に見えない疲れが蓄積しています。体だけでなく、気持ちも疲れる時期でもあります。いろいろな個性が集まり生活を共にする場、それが幼稚園です。公園で遊ぶのと違って、お母さんの助けはなく、自分で人間関係を円滑に保たねばならない、一方、自分のしたいこと、要求も通したい、etc. 喧嘩もし、仲直りもし、…その繰り返しです。
本園の場合、歩いての登園ですから、年中、年長児は年少児と手をつなぐという課題があります。いずれ年少児が登園に慣れたら、年中、年長同士手をつなげるケースが増えますが、今は年少児と手をつなぐことをお願いしています。ところが、年少の子どもは(年中、年長児の気持ちの中では)なかなか言うことを聞かない、という風に映るケースもあります。責任感の強いお子さんほど、幼稚園の先生と同じ種類の気苦労を背負い込むことになり、それが目に見えないストレスになる時期でもあります。
しかし、これらすべては時間が解決します(年少児もやがてたくましく歩けるようになる、クラスの人間関係も互いに癖がわかり、思いやったり、譲り合ったり、助け合ったりできる)。上で述べたことは、毎年この時期に目にする事例であり、3学期になれば、今のクラスの先生、友だちと別れるのがつらくなるのは毎年のことでもあります。
それまでは山登りと同じです。一歩一歩、石段を登るように歩いて山道を登っていくのです。クラスの先生も、お友だちも、みんな一つになって、日々様々なドラマをともに経験し、笑いも涙もともにするのです。「他人は他人、自分は自分」という考えの対極にある世界が園児の日常の世界であり、それゆえに悲喜こもごもの純度の高さは大人の想像以上です。
ここに関わる大人(先生も親も)に一番大切な条件は、「まごころ」で接するということだと思います。子どもの世界は必ずしも大人が想像するほど「平和」な日常ばかりではありませんが、いつも真っ直ぐな人間の心がそこにはあります(嘘を覚えるのは叱りすぎるからです。叱る理由が問題です。子を思う親のまごころに根ざした「叱り」は心に届きます)。先生にせよ親にせよ、「育てる」技術ばかりが問われるご時世ですが、私は技術を生かす人間の心が大切だと思います。
大人はたしかに子どもに比べ忙しく、ここがいつも問題になります。時間は限りがあります。しかし「何か」のために大人が子どもの目を見つめ、子どもの言葉をじっくり聞くチャンスを失っているとすれば、子どもはその「何か」の犠牲になっているということです。大人が問うべきは、自分が「何を」いちばん大切なものと考えているのか、という一点です。私がここで「大人」と書いて申し上げたいことは、保護者だけでなく教職員も含めての課題(もちろん私自身を含む)であるという点は、前回の園長便りで申し上げたとおりです。
大人が心に「ゆとり」をもつことが子どもたちに「まごころ」で接する「ゆとり」につながります。これはなかなか難しいことです。しかし、園生活を送る子どもたちも、日々「難しいこと」に挑戦しているのです。親にはその難しさ(心身両面にわたる)を具体的にうまく説明できないだけです(問い詰めても子どもは答えに窮するだけで逆効果です)。
幼稚園は子どもが育つ場であると共に、大人も育つことのできる場であると思います。子どもの成長を通し大人も成長できたらと(私も大人の一人として)願います。
(山下太郎 2008.5.2)
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2011年5月26日 | コメント/トラックバック(1) |
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「トカゲ」──園長日記より
昨日の保育日誌(年長クラス)に心に残るエピソードが記されていました。
「今日はお外遊びの時に男の子たちが死んだトカゲを持ってみていました。昨日、猫に食べられて、それを草のところに隠していたのですが、それではかわいそうだということで、どうするかを相談していました。
話し合った結果、土の中に埋めようということになり、お砂場の近くの草がたくさん生えて、皆が踏まないところを選び、そこに埋めてあげました。
自分たちで納得して場所を決め、お墓を作ってあげる姿がとても嬉しかったです。また、そのお墓に手を合わせてあげたり、「お空に行ってね」とトカゲに話しかけている子どもたちの優しさも嬉しく思いました。
生き物の大切さを考えることができた一日でした。」
「園長日記」より (2009-05-28)
PS
このエントリーには温かいコメントもいただいています。
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2011年5月25日 | コメント/トラックバック(0) |
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